6月4日は中国政府が35年ひた隠しにしてきた天安門事件の記念日

 

池上彰氏などは天安門事件では天安門では死者は居なかった等と大嘘を吐いていますが、現実にはとんでもない惨状が起きていました。

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64天安門事件の貴重な資料を中国反体制派の李老师不是你老师が6月4日公開しています。

ここでは天安門事件で無抵抗の学生に中国政府が何をしたのか詳細に報告されています。

見るのが辛くなる程に凄まじい内容ですが、日本人の皆さんが知るべき内容であり、日本語では報道されない内容ですので是非ご確認お願い致します。

 

6月4日、北京で最も暗い夜

その夜の大まかな流れは次のようなものでした。

人民解放軍第38軍と第15空挺軍は天安門広場に行軍する途中、沿道にいた市民や学生を銃撃し、多数の死傷者を出しました。

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・1984年6月4日午前1時30分頃、天安門広場周辺の戒厳令部隊が発砲 デモ参加者は追い払われ、死傷者が出ました。

・午前3時頃、「四紳士(学生民主運動を支援する為に天安門広場でハンガーストライキを開始した主要人物達)」周舵氏ら4人は、学生を平和的に避難させる為、学生側の司令部が人民解放軍の戒厳令部隊と交渉する事を提案しました。

・午前3時30分、学生側が戒厳令部隊代表と交渉し、戒厳令部隊は学生達の避難に同意しました。

・午前4時、天安門広場の照明が突然落とされ、数千人の民衆が惜しみなく哀悼の意を込めて国际歌を歌いました。

 

https://youtu.be/5sY0JHlDtaY?si=ZQjtGivIQT5YRuqs

午前4時30分、天安門広場の照明が再び点灯し数万人の兵士がその場を片付け始めました。広場の学生に避難の決定を下す為の動きも始まりました。

・午前4時50分、戒厳令部隊が学生を排除する為に武力を行使し、学生達を追い払い始めました。

・午前5時30分頃、 広場から避難しなかった学生達に兵士が発砲しました。

午前7時頃、六部口で広場から避難しようとしていた学生の一団が戦車に押しつぶされ多数の死傷者が出ました

この際、避難しようとしていた学生らの後方から戦車が急接近し、毒ガス弾と思われる煙も発射され、現場は黄色い煙に包まれ、群衆は道路脇に身を寄せるなど大騒ぎとなったそうです。

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戦車は速く、何人かの学生が戦車を発見した時には、既にその後ろに接近しており、 学生の集団が自転車レーンを歩こうと身を乗り出していたので、戦車は何人かの学生と自転車を一緒に直接押し潰しました。

・学生達が各大学に引き揚げた後、犠牲者を追悼する為に大学内に追悼館を設置した学生もいました。

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・1984年6月4日の天安門大虐殺は、全国400以上の都市で民衆の抗議行動を引き起こし、世界各国から非難を浴びました。

この日多くの事が起こったのです。

大虐殺から3年後の1992年6月16日、アメリカの『世界周刊』誌は天安門事件の現場に居た学生、钟罗白の署名入りで『白色黎明』と題する回想記事を掲載しました。

1984年、北京の大学に通っていたこの大学生は、長安街と天安門広場付近での九死に一生を得た体験を語っており、以下はその記事の末尾からの抜粋です。

「戦車は走りながら両側の人々にガス弾を撃ちながら急速に前進しました。私達が中南海の門に到着し、ガス弾を避ける為に中南海に入ろうとした時、道路の左側に人々が集まり始め、ゆっくりと後退していました。見張りの兵士達はいつの間にか大きな木の棒を手に取り、ガス弾から逃れるために中南海に入ろうとする群衆を外に追いやっていました。

六部口まで来ると、道路の左側に人だかりができているのが見えました。

戦車は止まり、ゆっくりと後退していきました。

私は道路を横切ってそこに来たが、直ぐにその光景に唖然としました。

私が目にしたのは、道路脇の自転車専用レーンと道路が接するところに倒されたバイクの列の上に、大量の血まみれの死体が横たわっている光景でした。

遺体の数は十数体、遺体には戦車の車輛の跡が残っていました。

若い青年の頭部は戦車により押しつぶされ、数メートル先まで白い脳みそが飛び出していました。

眼鏡をかけた別の男子生徒は仰向けに倒れ、下にあった自転車のハンドルが彼の背中を貫通して腹部から出ていました。 彼等は濃い赤に染まっていました。

こんな残酷な光景は(映画の中でさえ)見た事がありません。

これは人間の本性、近代文明を踏みにじる最も無慈悲な行為であり、この国の歴史の中で最も悲劇的で暗い1ページに違いありません。

足元から、呻き声が聞こえ、、、ああ! 私は慌てて、呻き声をあげている男子学生を血の海から助けようとしました。

私は彼の血まみれの体を抱え、そっと彼を引き寄せると、彼は弱々しく私に言った「クラスメート、私の足......、私の足......」と。

見ると彼の太ももの付け根から、血がにじんでいました。

私が彼を平台に乗せると仲間がやってきて、残っていたフィルムをすべて使い、様々な角度から、その様子を撮影していました。

私達は瀕死の同級生を抱えながら平台を押し病院に向かって歩きました。

忘れもしないあのシーンを振り返ると、死んだクラスメートのコートのポケットからビニール袋が出てきました。

おそらくそれが、この若い命が楽しんだ最後の晩餐......だったのでしょう。

二人の老婦人が遺体のそばにひざまずき、地面に手を叩きつけて「私の生徒達よ!」と泣き叫んでいました。

今まで聞いた中で最も悲しい泣き声でした。

この時、街頭放送では中国共産党中央委員会の発表が流れていました。

『暴動が北京で発生し、......暴徒の一部が戒厳令による秩序を破壊し、人民解放軍の兵士を切り刻んだ......』と。

殺風景な白い太陽が昇り、血痕、薬莢、戦車の跡で埋め尽くされた、かつてはとても美しかった長安街を照らし、煙はゆっくりと散っていきました。

この誰もいない通りで、この白い夜明けの中で、私は既に死んでしまったクラスメートを抱き上げました。

私達はもはや涙を流す事もできませんでした。

 

1、市民が軍の進入を阻み、北京の街から煙が上がる様子。

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2、戒厳令部隊が広場を強制占拠する様子。

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3、市民が血の海に倒れている様子。

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4、当時、平台車が倒れた市民や学生の救助の主な輸送手段となっていました。

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5.大量の戦車が天安門広場に転がり込んできました。 市民は学生を守る為に立ち去ろうとせず、その戦車隊列に立ち向かいました。

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6、市民は解放軍の激しい攻撃を受けて生死の危険にさらされ、道路から逃げ出さざるを得ませんでした。

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7、戒厳部隊が天安門広場を占領した後、夜間に火を放ちました。

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8、人民大会堂の前で、集まった学生たちに向かって銃を向け迫る兵士たち。

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9.早朝、大勢の学生が天安門広場から撤退する際、六合入口で戦車に追われ、数人の学生が轢き殺されました。

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10.北京体育学院の学生方正が同級生を助けようとしている際に戦車に轢かれ、足を失いました。

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11.長安街では人々が戦車に轢かれ、人間と認識できなくなる程の虐殺をされています。

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12.戦車に人々が轢かれた後、長安街に残された「人だったもの」

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13.病院内には死体が積み重ねられており、血が流れ続けていました。

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14.天安門広場に近い病院では、あまりに多くの遺体が送られてきたため、臨時の死体安置所を設けなければならなりませんでした。

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15.病棟には死者と負傷者がひしめき合っていました。

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16.復興病院では遺体が屋外に置かれ、遺体の身元確認が行われています。

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17.現場の路上で倒れている人たち。

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https://twitter.com/whyyoutouzhele/status/1797766668694749318?t=zGotPhIRWP_xpopyEPcrnw&s=19

18.負傷し生死不明の状態で運ばれている学生

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19.市民が人民解放軍による学生への攻撃に耐えきれず、レンガを投げて解放軍に抵抗している様子

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20.長安街で市民が燃やした解放軍の軍用車両

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21.6月4日未明、天安門六部口では、戦車が退却する学生を追いかけて轢き、その場で多くの学生が死亡しました。

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22.長安街では多くの軍用車両が、解放軍の行為に怒った市民によって燃やされました。

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