ヌーランドとマイダン革命については、起こった事実を針小棒大にロシアがプロパガンダしていました。ここではその様子をお見せします。
この件を端的に言うならば、ロシアはマイダン革命はアメリカによる色革命だと言いたいんですが、今回の様にアメリカとEUはウクライナの西側派支援に当時から入っていましたが、彼等によって革命が達成されたは言い過ぎです。
原因は西側の様な生活を望む国民がマイダン革命の前の選挙で「EUに歩み寄る」事を公約にしていたヤヌコビッチを信じて投票したら、ヤヌコビッチが当選後、公約を破棄してクレムリン寄りの政策や言動を行い始めたのを見て国民がキレた事も大きいのです。
スターリンが行ったホロモドール(ウクライナ人大虐殺)についても、ヤヌコビッチはそんなジェノサイドは我が国に無かった等と話し国民をキレさせていました・・・
合意していたEUとの連合協定も勝手に破棄し、ロシアと経済協力条約を結ぶと発表
その直後からマイダン広場で学生がデモを始めています。
これをヤヌコビッチが武装警察に弾圧させたことによりエスカレーション。親ユーロ派についてネオナチも暴れ更に話がややこしくなってしまいました。
ヤヌコビッチはユーロマイダンが激しくなってきた時期にロシアに夜逃げました。
夜逃げする前に何千もの文書を破棄して側近と一緒に逃げている事からかなりやましい事をロシアとしていた可能性があります。
その後ウクライナ議会(ヤヌコビッチ派も含む)は73%の賛成多数でヤヌコビッチを弾劾可決。
この様に、政治家が蝙蝠の様に態度を変えた事と、抑圧的なロシア寄りの政権に国民が嫌気がさしていた事もこの件の重要な要素です。
2014年のマイダン革命には、外国の関与があったのか?
クリミアやドンバスでの「ロシアの春」が、キエフや中西部ウクライナでのユーロメイダンと並行するように、ここでは物事が複雑になっています。地元住民の一部が沈黙し、叩かれて抵抗した「ロシアの春」は、ロシアの継続的かつ実質的な支援なしには、あのような形では決して起こり得なかった事は疑いない。
しかし、ユーロマイダンはどうだろうか。
ヨーロッパやアメリカの著名人がキエフに行き、デモを支援した。
その中には、当時野党(民主党のバラク・オバマが大統領)だった共和党のジョン・マケイン(1936-2018)上院議員や、民主党のクリス・マーフィー上院議員も含まれていました。
マケイン氏はマイダン広場で演説し、デモに同情を示し「平和的な移行」を呼びかけました。
マーフィーも同行し、超党派的な雰囲気が漂ったが、マケインはオバマ大統領とその政権を激しく批判しており、彼の演説が米国政府の代表としてなされたものでない事は確かである。
ウクライナの野党指導者達は、ユーロマイドンの期間中、海外を旅行していた。
彼らは2014年2月1日、ミュンヘンでヨーロッパの政治指導者、またジョン・ケリー米国務長官と会談した。
ロシアは2014年、電話を傍受・録音し、YouTubeに投稿させたり、プロパガンダメディアに掲載させたりして、一定の能力を示した。
★エストニアのパエト外相の電話をめぐって「スナイパーゲート」が生まれたように、米国がヤヌコビッチに対する2014年のクーデターを組織したことを「認めた」という噂の裏付けとして提示された「決定的証拠」は、2014年2月初めにYouTubeに投稿されたヌーランドのリーク電話でした。
★その通話記録は、ケリーがミュンヘンでウクライナの野党指導者と会談した際に同行したヴィクトリア・ヌーランド米国務次官補(現バイデン政権政治担当国務次官)が、ジェフリー・パイアット駐ウクライナ米大使との会話でした。その原稿がBBCで公開された。
この会話は、特にヌーランドがEUの無策と見るものを四文字熟語で表現した粗暴な言葉(EUをファックしろ)で話題となった。
実際、ヌーランドはウクライナの野党の人物についても議論し、2月27日に首相に就任するアルセニー・ヤツェニュクを他の人物よりも優先し、ジョー・バイデン副大統領(当時)を動かして彼を支持する可能性を表明していたのであった。
この会話でヌーランドがヤツェニュクを推した理由は、他の指導者よりも親米的であるという事よりも、経済学者として有能であるということであった。
この会話から、ヌーランドがEU外交を低く評価していた事、米国がウクライナ危機を大きな関心を持って追っていた事を導き出せる。
【重要】しかしそれは、米国がユーロマイドアンを組織した事を証明するものではない。
ヌーランドとパイアットの会話が探していた決定的な証拠ではないと分かると、ロシアのプロパガンダ部隊はヌーランドが2013年12月13日にワシントンDCの米ウクライナ財団で行ったスピーチを引用し、こう述べた。
「1991年のウクライナ独立以来、米国はウクライナ人が民主的なスキルと制度を構築し、市民参加と良い統治を促進するのを支援してきた」
我々は、安全で豊かな民主的なウクライナを確保する為に、これらの目標やその他の目標に対してウクライナを支援し50億ドル以上を投資してきた。」
【重要】ロシアのプロパガンダでは、これが「米国が50億ドルを投じてユーロマイダンを作った」という説になった。
【重要】もしヌーランドがユーロマイダンの黒幕だとしたら、何故50億ドルの投資を、演説の数日後に米国政府の公式サイトに掲載された演説で公に告白したのか、不思議でならない。
ヤヌコビッチ氏がロシアに逃亡した後、ロシアの宣伝屋が広めたミームがフェイスブックで流行した。
"バラク・オバマ大統領は、ウクライナ人が暴動を起こし、民主的に選ばれた政府を解体する為に50億ドルを費やした "という内容であった。
その証拠として、米ウクライナ財団でのヌーランド氏のスピーチが引用され、それ以来、この主張は繰り返されてきた。
【重要】しかし、この50億ドルという数字は、1991年から2011年までの20年間に米国がウクライナを支援する為に支出した総額である事が、調査をした数少ないジャーナリストによって明らかにされた。
米国は、有色人種であろうとなかろうと革命が起きなかった他の東欧諸国を支援する為に同額を支出した。
この資金は民兵や抗議する学生を支援する目的に使われたのではない。
【重要】例えば、11億ドルは起業の促進や経済成長の促進に使われた。
4000万ドルは、反エイズプログラムとリプロダクティブ・ヘルス(ただし、反マラリアキャンペーンも含む)に充てられた。
保守的なウクライナのキリスト教徒は、中絶支援を含むと批判したが、ユーロマイダンとは何の関係もない事は確かである。
国家安全保障上の理由から公開されていない金額は、ウクライナの軍と警察の再編成を支援するもので、ユーロマイダン開始当初はヤヌコビッチに大きく味方していた。
といった具合だ。
明らかに、ヌーランド氏の有名な50億ドルという数字は、異なる期間と異なるプロジェクトを指しており、ユーロマイドーンとは何の関係もない。
米国とEUはデモに共感したのだろうか?
抗議者達がEUの旗を掲げ、西に目を向け、ヨーロッパと西洋のアイデンティティを強調するウクライナへの信頼を宣言したのだから、間違いなくそうだろう。
米国はユーロマイドアンを組織し、指揮したのか?
【重要】多くのロシアのプロパガンダがあるが、証拠はない。
ユーロカイダンはクーデターだったのか?
いいえ、法的にも政治的にもそうではありません。
曖昧な理由で選挙制度を破り、当初は平和的な抗議行動だったものを警察に命じて容赦なく弾圧し、ついには国外に逃亡した大統領を議会の投票によって解任したのである。
ヤヌコビッチは議会の多数決で解任され、その後、民主的な選挙を早急に実施した。
これは、プーチストの典型的な行動である。
【重要】一方、明らかに海外からの指示で組織されたのが、クリミアやドンバスでの「ロシアの春」であり、その後のロシアの軍事侵攻であった。
ロシア人は、海外から指示された色革命に関する自分達のプロパガンダを信じるようになり、自分達で作り出した。
確かに、ロシアが親ヤヌコビッチ派を支援したよに欧米はユーロメイダンやヤヌコビッチの反対派を支援した。
しかし、ウクライナ人の多くが道徳的に破綻した政府だと認識していたものに対する民衆革命を起こしたのは、西側諸国の意思ではない。
2014年にウクライナで何が起こったのか?
2014年、ヤヌコビッチ大統領の選挙プログラムへの裏切りに対する抗議は、暴力と死へとエスカレートしていった。
2004年12月の不正選挙を理由に最高裁で大統領選が無効となって敗北したヴィクトル・ヤヌコヴィッチは、2005年にプーチン率いる統一ロシアと協力協定を結び、その後、ロシアと欧米の双方と良好な関係を維持しようとする穏健派として自らを位置付け直す。
ロビイストでトランプ大統領選の選挙対策委員長も務めたポール・マナフォートの裁判で明らかになった文書にあるように、ヤヌコビッチは民主党と共和党の両方のアメリカのコンサルタントやロビイストによって自己改革を助けられたのである。ヤヌコビッチは2010年の大統領選に再び出馬し、ウクライナの欧州連合加盟の要望を掲げた。第2回投票で、対立候補のユリア・ティモシェンコの45.47%に対し、48.95%の得票率で勝利した。
ティモシェンコは不正を主張したが、OSCEや欧州連合などの国際機関が監視員を派遣し、2010年の選挙は有効であると認定した。ヤヌコビッチはウクライナの大統領に正当に選出された人物である。
しかし当選後、ヤヌコビッチ氏はEU加盟交渉にほとんど進展がなかった。それどころか、その政府は益々権威主義的になっていった。2011年にはティモシェンコを含む反対派が、多くの人がでっち上げと見なす汚職容疑で逮捕された。
2013年11月21日、ヤヌコビッチは、合意していたEUとの連合協定に署名せず、ロシアと経済協力条約を結ぶと突然発表した。当選時の方針から一転し公約を覆したのである。しかし同じ11月21日にキエフのマイダン広場に学生達が集まって抗議したのは、EU問題だけが理由ではない。欧州連合問題は、長年に渡る抑圧的な政策と政府の大規模な腐敗の告発の上に成り立っていたのである。
ヤヌコビッチの態度の中で多くのウクライナ人を怒らせたのは、ウクライナの歴史的記憶の重要な部分であるホロドモールを否定した事だった。1932年から33年にかけて、スターリンはウクライナの広い地域で人工的な飢饉を組織し、軍隊はウクライナ人が他の場所に移動するのを防いだ。スターリンの考えではこの飢饉によって、反ソ連の反対勢力の中核であるウクライナの小地主を絶滅させる事であった。ホロドモールは、少なくとも350万人のウクライナ人が死亡した飢餓によるホロコーストであり、現在では全会一致ではないにせよ、広くジェノサイドとして認識されている。
プーチンのロシアでは、スターリンがホロドモールの責任を負った事は否定され、この出来事は自然の飢饉として説明されている。ヤヌコビッチはウクライナでのホロドモールの記念行事を黙殺しようとし、「隣国の一つ(ロシア)を責めるのは不当だ」と主張した。
ウクライナを訪問中のカナダのスティーブン・ハーパー首相が、キエフの大虐殺記念館で、カナダ人ウクライナ人の祖先を含むホロドモールの犠牲者に敬意を表そうとした際、ヤヌコビッチは参加を断り大虐殺はなかったと告げた。一部の学者が指摘する様に、ウクライナ人以外の多くの人々はヤヌコビッチの主張の重大さを理解できなかった。例えるならば、イスラエルの大統領がホロコーストを公然と否定する様なものだった。
マイダン広場での大学生を中心とした小規模で平和的な抗議行動が、暴力に発展し、「ユーロマイダン」あるいは「尊厳革命」と呼ばれる革命に発展していった。その流れを変えたのは、11月29日の警察による学生への残忍な弾圧であった。何十人もの学生が酷い暴行を受けた。11月29日以降にマイダン広場に行った人の多くは、おそらくEUの為に抗議したのではなく、ヤヌコビッチ政権の権威主義的な傾向を示す証拠とみなした警察の残虐行為を非難する為に街頭に立ったのだろう。
キエフのデモ参加者は、当初数千人だったが、最も保守的な推計では40万人、最も寛大な推計では80万人にまでエスカレートしている。2004年のマイダンと異なる点は、リヴィウなどでも「ローカル・マイダン」が勃発し、ヤヌコヴィッチ退陣を求める運動が全国区となった事である。そして2014年と共通する点は、ドンバスやクリミアでの親ヤヌコビッチ派のデモが、今度は "ロシアの春 "という名で行われた事である。
また、マイダン広場周辺でエスカレートしたのは「暴力」である。デモ終了までにデモ隊に108人、治安当局に13人の死傷者が出た。犠牲者の多くは狙撃手によって殺された。
その狙撃手とは誰なのか。ウクライナの著名人の中には、ロシアの工作員を非難する人もいた。ユーロマイダンについて論じた多くの学者の間では、狙撃手はウクライナ保安局(SBU)の一員で、ヤヌコビッチによって派遣されたとする説が主流であった。ロシアや親ロシア派のメディアは、狙撃兵は実際には抗議運動の一部であり、反対派がヤヌコビッチに辞任させる為にデモ隊の殺害を依頼したという説を発表し、今日まで維持している。
この説のロシア陣営が提示した主な「証拠」は、EUのキャサリン・アシュトン外交部長とエストニアのウルマス・ペート外相の電話会談のYouTubeに登場したリークで、ロシアのプロパガンダ機関「ロシア・トゥデイ」によってウェブ上で宣伝されたものである。エストニア外相はEU外交部長に、キエフを訪問した際、「マイダン医師」として人気のあるオルガ・ボホモレツという医師から、デモ隊と警察官が同じ弾丸で殺されたと聞いたと話し、反ヤヌコビッチ連合が狙撃者の背後にいる事を示唆した。
エストニア外相はメディアに対し、この会話が事実である事を確認したが、結論を出すのではなく、「懸念」を表明したのだという。更に重要なのは、ボホモレッツが扱ったのは抗議者だけであり、エストニア外相は彼女が話したことを誤解していたと述べたことである。エストニア外相とボホモレツの話を繰り返す人々の中で、同じ弾丸が警察官とデモ参加者を殺したという事実が、たとえ真実であっても、狙撃手がヤヌコビッチに対して働いていたという証明にはならないことを考える人はほとんどいない。ロシアの工作員は、混乱を引き起こすという既得権益を持っていたかもしれない。
もう一つの論点は、ユーロマイダンにおける極右勢力の役割である。しかし、ユーロカイダンのデモ参加者の中には、右翼の過激派やネオナチもいたが、少なくとも100万人が街頭に立った国民運動の中では数千人に過ぎなかった。
ユーロマイダンは、ヤヌコビッチが議会が自分に対して行動する事を理解した際に終了した。2014年2月21日、彼は欧州連合の仲介で、2014年内の新たな大統領選挙とそれに繋がる暫定政権の樹立を求める野党指導者との合意に調印した。しかし、2月21日から22日にかけての夜、ヤヌコビッチはカルクヒフに逃げ、更にロシアに向かった。
彼は後に、「訪問」の為にロシアに行っただけだと主張したが、彼が何千もの個人文書を破棄し、主要な側近も一緒に逃亡した事を考えると、この主張は信憑性に欠ける。デモ隊が大統領府と彼の住居を襲撃した為、ヤヌコビッチはキエフを離れざるを得なかったという主張も虚偽である。プーチン自身が記者会見で、これらの出来事はヤヌコビッチがキエフを離れてカルクヒフに向かった(そこからロシアに向かった)「後」に起きたことだと述べたのである。
2月22日、ウクライナ議会はヤヌコビッチ自身の党員を含む73%の賛成多数で、彼を大統領職から「解任」する事を決議した。プーチンはこれを米国が仕組んだ「クーデター」と呼んだ。それは単なるプロパガンダに過ぎない。
ロシアとその仲間達は、2022年の戦争が、ウクライナにおけるアメリカの扇動した「クーデター」の結果であるかのように見せている。しかし、"クーデター "はなかった。
ロシアのプロパガンダの最も人気のある主張の1つは、残念ながら多くの騙されやすい西洋人に買われているが、2022年の侵略を含め、2014年以降ウクライナで起こった全ての事は、2004年と2014年の「クーデター」に由来し、アメリカが合法的に選ばれたヴィクトル・ヤヌコヴィッチ大統領の追放を2度に渡って画策したとされているこだ。
この主張は誤りで、実際に米国がウクライナで「クーデター」を組織したという主張は、2004年の最初のマイダンの反乱から始まっている。2004年と2014年の反乱は、同じ親ロシア派の政治家であるヤヌコビッチに向けられたものではあるが、異なるものである。2つのマイダン反乱を区別するため、一般に第2次をユーロマイダン、第1次をオレンジ革命と呼んでいる。
2004年11月21日、ウクライナ大統領選挙の第2ラウンドで、ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ首相と野党指導者のヴィクトル・ユシチェンコが対立した。ヤヌコビッチ首相は親ロシア派との評判があり、ロシアが彼の勝利を好んだ事は確かだが、選挙戦の争点はロシアだけではなかった。多くのメディアが出口調査と予測に基づいてユシチェンコの勝利を論じ始めた後、驚くべき事に中央選挙管理委員会がヤヌコビッチの勝利を発表した。プーチンは即座にヤヌコビッチに祝辞を述べた。
ヤヌコビッチ氏が首相を務めていたウクライナ政府の招きで、OSCE(欧州安全保障協力機構)が500人以上のオブザーバーを派遣して選挙を管理していた。私はOSCEで働いた経験があり、OSCEを米国の傀儡と決めつけるのはおかしいと思う。ロシア、ベラルーシ、親ロシアの中央アジア諸国はすべてOSCE参加国であり、2004年のオブザーバーは46カ国から集まっていた。
OSCEのオブザーバーは、11月21日の決選投票の公正さを証明する事を拒否し、大規模な不正選挙があったと結論付けた。例えば、親ヤヌコビッチ派の多いドンバス地区の投票率は127%と報告されている。100%近い投票率はすでにどの国でも怪しまれているが、127%は世界記録であり、当然不正の明らかな証拠である。
この不正選挙に抗議して、多くのウクライナ人が街頭に出て抗議、「オレンジ革命」と呼ばれた。12月1日、ウクライナ議会はヤヌコビッチに対する抗議決議を採択した。
野党は最高裁にも請願し、最高裁は12月3日、不正選挙の確実な証拠はあるが、ユシチェンコを当選者と宣言する立場にはないとの判断を下した。その代わり、最高裁は第2回投票の再実施を命じ、再びOSCEの監視団を招いた。新しい第二回投票は12月26日に行われた。この選挙はOSCEによって公正であると認定され、ヤヌコビッチの44.20%に対してユシチェンコの51.99%の票を獲得した。結果は11月21日のメディアによる予測とほぼ同じだった。
ヤヌコビッチは、これらの予測は自分に対するメディアの偏見によるものだと主張した。しかしOSCEは、11月21日の選挙を不正と断定する為に、メディアによる予測と結果の不一致に頼ったわけではない。OSCEは自らの監視団が見たものに依拠したのである。
2004年にヤヌコビッチに対する最初のクーデターがあったのでしょうか?そうではありません。米国や他の殆どの民主主義国で起こるのと同じように、ウクライナの最高裁判所は選挙の有効性について判決を下す権限を持っており、11月21日に行われた不正の為に決選投票を繰り返すべきだと判断したのです。
オレンジ革命は米国によって組織されたのでしょうか?答えはノー。不正選挙に対する抗議は自然発生的に広まった。米国と欧州連合がヤヌコビッチ氏を当選した大統領と認めないという事実は、抗議者達、更には国会や最高裁を勇気付けたかもしれないが、彼らの抗議や決定を生み出したわけではない。
また、ヤヌコビッチの選挙地盤であるドンバスやクリミアで親ヤヌコビッチのデモを支援し、分離主義を求める声が聞こえ始めたというロシアの役割についても、ほとんど言及されることはない。これらの地域のヤヌコビッチ支持者は、オレンジ革命に反対する為にキエフに向かったが、100万人とも言われる反ヤヌコビッチ派にあっという間に圧倒される事になった。
ウクライナのオレンジ革命は「カラー革命」のモデルとして研究されているが、2003年のグルジアのバラ革命が先行しており、スロバキアやセルビアにも先例がある。ロシアも中国も、「カラー革命」はアメリカが友好的な政府を打倒する為の策略であると描いてきた。ロシアも中国も、「カラー革命」を自国の友好的な政府を倒そうとするアメリカの陰謀であるとし、欧米のジャーナリストによる書籍や記事でその批判を援用してきた。ロシアもまた、同じような戦略をとろうとしている。2014年のクリミアやドンバスでの抗議行動、いわゆる「ロシアの春」については、この連載の別の記事で触れるが、ロシアが煽った「対抗色革命」であるとされた。
色革命についてはかなりの学問が存在する。欧米とロシア(中央アジアで色革命が起きたときは中国も)の両方からの影響を考慮しつつ、色彩革命は、腐敗と不正選挙によって統治された政府によって裏切られた民主化への期待から発生したとする研究がほとんどである。歴史上、外国からの支援や敵意なしに起こった革命はほとんどない。有色人種革命の特徴は、アメリカの支援やロシア・中国の敵意ではない。それは、民主主義が約束されながら実現されなかった国々の、冷戦後の特殊な状況に根ざしていた事である。
色革命は通常、半権威主義的であると同時に半民主主義的な体制で起こった。この体制では、NGOや比較的自由な学界や報道機関を含む独立した市民社会が、限定的ではあるが実際に発展することが可能であった。明らかに、各国のカラー革命の間には違いがあった。典型的な例としては、2004年のオレンジ革命の場合、民主的な基準に従って実施されていない選挙の不正に抗議して、大都市の市民社会が街頭で抗議活動を行った。欧米の支援とロシアの敵対は、ウクライナのカラー革命を後押ししたが、それは革命を生み出したのではない。