アル・シファ病院の地下にあるハマストンネル

 

ハマストンネルの真実について

Photo Ömer Yıldız

· Middle East,特集

アル・シファ病院に見られる様なハマスのトンネルの正体、この記事でその正体を明らかにします。

https://youtu.be/U7JD0teLx4U?si=SRCwiXqk16_MK8U9

 

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IDF(イスラエル防衛軍)が先日発見したハマストンネル開口部の、更に内部状況をツアー形式で公開しています。

こちらで紹介したトンネル降下後の続報です。

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https://youtu.be/PJU3kNB_kyI?si=DIteanp2AlE_yiwJ

この報告について親ハマス派は以下のように主張しています。

「これはイスラエルが建設したトンネルだ。」と。

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ピカピカに磨かれたこのトンネルの中のトイレを指して、これでは不十分だと騒ぐ。

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矛盾してるんですよ。イスラエルしか使っていないトンネルなら、何故こんなに設備がきれいに整えられているのか?

ハマスが綺麗好きなのは意外で見直しましたがw

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CNNの上記の報道では元イスラエル首相の発言が切り取られて紹介されていますが、全体で見るとこれはハマスが使っていたトンネルだと言っています。

 

ハマスはアル・シファ病院の地下にイスラエルが建設した地下壕を使用しているとイスラエル元首相が発言

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バラク元イスラエル首相は月曜日、イスラエルがガザ市のアル・シファ病院の地下に「数十年前に」地下壕を建設していたと述べた。

「ハマスの司令部として使われていたシファ病院の地下に、元々イスラエルの建設業者によって作られたバンカーがある事はすでに何年も前から知られている。そして、いくつかのトンネルの分岐点のようなものが、このシステムの一部なのです」

「おそらく、司令部はここだけではないでしょう。他の病院の下とか、他の微妙な場所にもいくつかありますが、この紛争中もハマスによって使われていたことは確かです」

イスラエルは1967年にエジプトからガザを占領し、2005年に入植者と兵士を撤退させるまで、ガザを完全な軍事占領下に置いていました。その2年後にハマスがガザを掌握。

「この限られた敷地内で病院を運営する為のスペースを確保するのに、私達がこのようなバンカーを建設する手助けをしたのは、おそらく50年か40年前の事です」とバルクは語った。

 

ではハマスは何故ガザでトンネルを掘っているのでしょうか?

ここでは、何故こんなにもハマスはトンネルを掘削したのか?その経緯をお見せします。

パレスチナ研究所は2012年夏にガザのトンネルに関する詳細な報告書を発表しています。
その報告書は、ガザでのトンネル建設の過程で多数の子供が死亡したと報告しました。

「ハマス当局者らによると、少なくとも160人の子供がトンネル内で死亡した」

ガザで活動する人権団体は2008年時点でトンネル内での児童労働について懸念を表明、ハマスは「規制を検討している」と応じたとの事です。

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ハマスはガザ支配直後からトンネル網整備を始めていました。

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この報告をしたパレスチナ研究所とは?

パレスチナ研究所は、Journal of Palestine Studies、Jerusalem Quarterly、Majallat al-Dirasat al-Filastiniyyaの3つの季刊誌を発行しており、それぞれワシントン、ラマッラ、ベイルートで独自に編集されています。

パレスチナの立場からの報告を多数だしており、イスラエル政府の影響力は限定的に見える研究所です。

読者は学者、専門家、学生、活動家、作家、ジャーナリストで構成されており、発表している資料は報告書、インタビュー、書評、その他の資料に加えて査読付きの学術論文を掲載しており、パレスチナ研究の為の不可欠な資料として広く知られています。

2012年時点でのハマストンネルについての研究

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本稿は、イスラエルによるガザ沿岸の小さな飛び地に対する経済的圧迫に対抗して、過去10年間におけるガザのトンネルで見られるの異常な発展を追跡しています。

2007年にハマスがガザ地区を占領して以降に焦点を当て、トンネル産業が密かなその場しのぎの事業から、規制、課税、官僚化された主要な商業事業へと変貌を遂げた過程を描いています。

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ここではトンネル群の特殊性を説明するだけでなく、それがガザの社会経済階層、戦略志向、イスラム主義支配に与えた影響を探っていて、また、より大きな地政学的背景、特にイスラエル、シナイ半島、ナイル渓谷についても論じています。著者は、その設計者の意図に反して、包囲がガザ経済の再構成を促し、その支配者が封鎖の最悪の影響を回避する事を可能にしたと論じています。

UPDATE:ハマスのトンネルで160人の子供が死亡したとの記事について、訂正がありました。この数字は正確ではありません。この数字は2012年の時点で、ハマス当局が記録したトンネル内での死亡者数の合計です。

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ラファを訪れる観光客は、1948年のナクバにタイムスリップしたかのような錯覚に陥るだろう。

町の南側では、水平線が何百もの白いテントによって遮られ、風に靡いている。

このテントは、土地を奪われた難民の代わりに、何百ものトンネルの口を保護している。

過去5年間、過酷な包囲に見舞われたガザ人の命綱として重要な役割を果たしてきたトンネルだ。

日除けの下では、何千人もの労働者がガザ復興のための重い資材をかき集めている。

ローダーが砂地を突っ切り、ジャガーノートに砂利を積み、一帯を砂煙で包み込む。

タンクローリーは地下にある燃料タンクからガソリンを満タンにし、税関職員はトラックの重量を量り、出国に必要な納税証明書を発行する。

2004年にイスラエルがガザとエジプトを隔てる不毛な通路を作る為に平らにした土地は現在、ガザ経済の原動力となっており、パレスチナのイスラム主義勢力ハマスの主要プロジェクトとなっている。トンネル網をガザ人が運用する事で、地上も地下も活気に満ちている。

https://youtu.be/5XX81uB_H1w?si=6C-N0m5htnyzG2Bl

 

生命線(トンネル)が形になる

何千年もの間、ラファはアフリカからアジアへ砂漠を横断する商人が最初に立ち寄る場所だった。1948年のイスラエル建国後も、ガザは1967年のイスラエル占領までエジプトに統治されていた。

その後も、ベドウィン(砂漠の住民を指す一般名詞でアラブの遊牧民)は国境を何不自由なく越え、交流と生活を続けてきた。

1981年、エジプトとイスラエルが1979年の和平条約の一環としてガザの南端に沿って境界線を画定したとき、初めて本当の意味での分離が始まった。

この協定が実施され、ラファがイスラエルとエジプトに分断されるやいなや、14キロの国境をまたぐベドウィンの一族が、特に地盤が最も軟らかい中間地点の地下に潜り始めたのだ。

イスラエルが初めてトンネルを発見したのは1983年の事だった。

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発見を避ける為、ガザ人は家の地下から深さ約15メートルまでトンネルを掘り、数十メートル南下した後、国境のエジプト側に再浮上した。

1980年代後半になると、トンネルの運営者はエジプトでは補助金が支給され、イスラエルでは課税される物資、例えばプロセスチーズや、おそらく麻薬、金、武器などの禁制品を輸入するようになった。

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当時のトンネルと思われるもの⇧

イスラエルによるガザへの「ソフトな隔離」、すなわちイスラエルへの人や物資の移動に対する着実な制限強化は、オスロ和平プロセスと共に、1994年のパレスチナ自治政府設立に向けて始まった。

オスロ和平調印後、イスラエルはガザを囲む障壁を建設した。

イスラエルのターミナルを経由してのアクセスは続いたが、定期的な閉鎖によって、ガザ住民は代替手段を求めるようになった。

2000年9月、アル・アクサ・インティファーダ(武装蜂起または暴動呼び掛け)が勃発したとき、障壁は抗議者たちの最初の標的となった。

イスラエルのターミナルが頻繁に封鎖され、2001年にはガザの港と空港が破壊、インティファーダの軍事化と相まって南への出口を求める動きが強まった。

その為、慢性的な品不足を緩和する為に初めて、安全弁としての役割を果たしていたトンネルの拡張と改良が行われた。

インティファーダの間、武器を求め活動資金を調達する必要があった為、パレスチナの様々な政治派閥が長く深いトンネルを掘った。

資金不足に陥ったパレスチナ自治政府(以下PA)は、最も安易な対策として国境沿いの氏族らに共闘させトンネル掘削を進めようとした。

パレスチナ治安当局の高官でありガザの著名なファタハ指導者でもあるサミ・アブ・サムハダナは、自身もラファ国境にまたがるベドウィン一族の出身で、トンネルの拡張の大部分を監督していた。

このような安全保障とビジネス、民兵活動と民間起業の融合は、将来の発展の象徴になる筈だった。

第2次インティファーダを打ち破り、ガザとエジプトの間の緩衝地帯を広げる事を目的としたイスラエルの一連の軍事作戦もトンネルを標的にした。

一方的なガザ撤退計画の実施に先立ち、イスラエルはラファと国境を結ぶ幅100メートルのサニタワール内のパレスチナ人住宅約1500戸を破壊し、高さ7メートルの壁で補強した。

エジプトのムバラク政権は、シナイ半島の紅海に面したリビエラ沿いにある人気の観光リゾート地がインティファーダの波及や自爆テロによって受ける影響を懸念していたが、この壁が出来る事により自国が守られるであろうと期待し壁の建設をほぼ容認した。

加えて、イスラエルが撤退する事で、ガザの170万人の住民の責任をエジプトに負わせ、ガザをヨルダン川西岸地区から切り離し、パレスチナ国家というアラブの願望を終わらせる事を恐れていた。

イスラエルがガザ撤退を完了してから4ヵ月後の2006年1月、パレスチナ立法選挙でハマスが勝利した。

イスラエルはこれに対し、組織的に国境を強化した。

2006年3月12日、ハマスが統一政権樹立に向けた交渉を行っている最中、イスラエルはかつてガザの労働力の70%を占めていたイスラエル国内のガザ人労働者に対し、エレズ・ターミナルを閉鎖した。

2006年6月、イスラエル軍兵士ギラッド・シャリットがパレスチナ武装勢力に捕らえられ(そしてトンネルで連れ去られ)、イスラエルはガザの主要な物資の通過地点であるカルニ・ターミナルを閉鎖した(すでにそれまでの半年の間、閉鎖されていた)。

またイスラエルは旅客輸送の為のラファ・ターミナルの使用を阻止し、そこでの欧州監視ミッションのアクセスを厳しく制限した。

数々の貿易制限を受けていたパレスチナはトンネルがあれば物資を運ぶ事もでき、イスラエルのからの空爆の脅威を和らげ破壊工作からも身を守る事も可能と考えて、破壊された緩衝地帯の地下により深く長いトンネルをの開発を進めた。これを機にトンネル網は拡大し続け、インフラも改善された。

それでも2007年6月ハマスがガザを掌握しファタハ軍を解散させ指導者たちを追放した時、イスラエルとエジプトがガザをほぼ完全に封鎖した事によって急増した交通量にトンネルは対応できなかった。

 

ハマスの占領:封鎖と拡大

2007年夏、ハマスによるガザ占領はトンネル取引の転機となった。

すでに実施されていた包囲が強化されたのだ。エジプトはラファ・ターミナルを閉鎖した。

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イスラエルはガザを「敵対的な存在」に指定し、2007年11月の国境地帯へのロケット砲の一斉射撃を受けた後、食糧供給を半減させ、燃料の輸入を停止した。

2008年1月、イスラエルはスデロットにロケット弾が撃ち込まれた後、燃料の全面封鎖を発表し、7つのカテゴリーを除くすべての人道支援物資を禁止した。

ガソリンの供給が枯渇すると、ガザの人々は道端に車を捨ててロバを買った。

海上ではイスラエルによる封鎖、陸上ではエジプトとイスラエルによる包囲網が敷かれ、ガザの人道危機は迫りハマスの支配が脅威となった。

ハマスが最初に試みたのは、シナイ半島の支配を打破する事だった。

2008年1月、ハマスはラファ交差点の壁の一部をブルドーザーで破壊し、数十万人のパレスチナ人がシナイに流入できるようにした。

長い間鬱積していた人々の不満が解放されたとはいえ、この措置は短期的な救済にしかならなかった。

エジプト軍は壁の破壊から11日後にパレスチナ人を追い返す事に成功した。

エジプトはその後、施錠されたゲートを守る軍隊を強化し、要塞化された国境の壁を築いた。

包囲網が強化されるにつれ、ガザの製造業の雇用は2008年半ばまでに35,000人から860人に激減し、ガザの国内総生産(GDP)は2005年の水準から実質ベースで3分の1に減少した(同じ期間にヨルダン川西岸では42%の増加)。

地上への立ち入りが禁止された為、ハマスは産業規模の地下埋設計画を指揮した。

各トンネルの建設費は8万ドルから20万ドルに膨らんだので、ハマスやハマス支援のモスクは非現実的な高収益率を提示するスキームを立ち上げた。それは、高額な費用を捻出する為のマルチやねずみ講だった。

※最近ではハマスは残念な事に仮想通貨詐欺をして資金を捻出していると報告されています。

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ハマスの説教者達は、営利目的のトンネル事業を「抵抗」活動として賞賛し、作業中に殺された労働者を「殉教者」として称えました。

国家治安部隊(NSF)は、ハマスが主にイズ・アルディン・アル・カッサム旅団(IQB)の要員で再結成したパレスチナ自治政府軍(PA軍)であったが、数百人の(ファタハの)パレスチナ脱走兵も含まれていた。

同時にハマスが運営するラファ自治体は、何百台もの巻上機に電力を供給する為の送電網を整備した。またある時はガザの消防サービスを待機させ、燃料を汲み上げる為に使用されるトンネルの火災を何度か消火した事もあった。

ハマスのガザ指導者であるマフムード・ザハールは、「電気も水も食料も外から来なかった。だから我々はトンネルを作らなければならなかった」と語っています。

モスクのネットワークを通じて資金を調達したハマスのメンバーを含む個人投資家は、国境をまたぐ家族と提携した。

弁護士は、商業用トンネルを建設・運営する為の協同組合の契約書を作成した。

その契約書には、パートナーの数(一般に4人から15人)、それぞれの株式の価値、株主の利益を分配する仕組みが詳細に記されていた。

典型的な組合には、例えばラファ陸路交差点のポーター、旧パレスチナ政権の警備担当官、農業労働者、大卒者、非政府組織(NGO)職員、掘削業者など、ガザ社会の断面が含まれていた。

一例を見ると、タクシー運転手として1日30~70NISの収入を得ていたアブ・アフマドは、2万ドル相当の妻の宝石を投資して、他の9人とともにトンネル・ベンチャーを立ち上げた。

投資家は直ぐに元を取る事ができた。

トンネルが完全に稼働すれば、1ヶ月で建設費を回収できる。

各トンネルは国境の両側で共同経営され、ガザとエジプトの所有者は通常は収益を等分に分配した。

トンネルは「武器の密輸を主目的とする企業」から、急速に「ガザの肺」と表現されるような存在へと変貌を遂げた。

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2008年12月の「キャスト・リード」作戦の前夜までに急増し、その数は2005年半ばには主に派閥のトンネルが数十本だったものが少なくとも500本に増えていた。

ハマスに対する国際的なボイコットに起因するガザ経済の急激な縮小をある程度緩和し、パレスチナが業務停止を命じた者を含む約7万5,000人のパレスチナ職員への給与支払いを継続する事で、政府の流動性と購買力を維持した。

一方トンネルの活動範囲は、ラファのターミナルから西の海岸近くのテル・ザグレブまで、国境に沿って延びる8キロに倍増した。

国境が混雑していた為、掘削作業員はグーグル・アースでルートを確認しながらトンネルを掘っていった。

労働者は6人でチームを組み12時間2交代で24時間働き、1日に平均10~15メートル掘ることができた。

一旦機能し始めたトンネルは、配送スピードを上げる為に常に改良された。

やがて内部照明、インターホン、そして頻繁な停電時にも作業を維持する為の発電機が取り付けられるようになった。

荒削りだったトンネル内部は商品が傷つかない様に滑らかに補修された。

ガザ側ではハマスによって「合法化」されたが、エジプト側ではトンネルは秘密裏のままだった。

その為、ガザではトンネルの口が民家の地下から回廊に面した開けた場所に移されたのに対し、エジプトではトンネルは目立たないようエジプト領内の奥深くまで伸びていた。

標準的な800メートルのトンネルの4分の3までがエジプト側にあった。

そして白いキャンバスで風雨から守られたトンネルの口はガザ側では開いていたが、エジプト側では隠されたままだった。

 

トンネル取引の公式化:規制と税関制度

2007年6月にハマスがファタハからガザを掌握すると、ハマスの軍事組織であるカッサム旅団(IQB)はファタハが運営するトンネル、特に飛び地から逃亡したサミ・アブ・サムハダナが監督するトンネルを流用した。

カッサム旅団はファタハの新たなトンネル建設を禁止し、パレスチナ・イスラム聖戦や人民抵抗委員会など、国境を越えるトンネルを運営する他の派閥に対する統制を強化した。

カッサム旅団はアル・アクサのインティファーダの時に造られたその場しのぎのトンネルを、ガザで最も長く、深く、洗練されたトンネルに変貌させ、独自のネットワーク拡大に乗り出した。

それ以降、カッサム旅団がトンネルを支配するようになったのは議論の余地がない。

 

トンネルには当初から軍事・作戦目的で使用され、政府の検査官や税関当局が立ち入れない派閥のトンネルと、ガザの主要な輸入源である民間所有のトンネルとは、事実上区別されていた。

民間トンネルについては、ハマス政府はカッサム旅団から支配権を奪おうと奮闘した。

しかし、そのプロセスは遅々として進まなかった。

カッサム旅団は、2007年6月のパレスチナとの戦闘での勝利した事で地上で支配を維持し、イスマイル・ハニヤ率いるハマスの政治指導部がトンネルの主導権を取ろうとする事に抵抗した。

結局2007年以前にハマスが任命した内相が、ガザでファタハが支配するパレスチナ自治政府軍に対抗する為に設立した武装部隊である執行軍と、カッサム旅団員との間で暴力的な衝突や縄張り争いが相次ぎ、執行軍が優勢になった為、ハマス内務省が政府に代わって民間所有のトンネルを管理する事になった。

一旦、商業用トンネルを掌握すると、ハマス政府は規制を通じて密輸経済の公式化に着手した。

「キャスト・リード」作戦の後、ハマス内務省は商業活動の規制機関としてトンネル問題委員会(TAC)を設立した。

その最初の活動のひとつが、武器、アルコール、ガザで多用されている鎮痛剤トラマドールなどの「輸入品ブラックリスト」を発行する事であった。

トンネルでの死傷者、特に児童労働者の犠牲者の増加に対する社会的懸念を受けて、トンネル問題委員は安全な労働条件を確保する事を目的としたガイドラインを発表した。

時間をかけてトンネル問題委員は現場をフェンスで囲み、トンネルの開口部はバイクでパトロールされ、約300人の内部保安要員を入坑口に配置して入退坑者の書類を抜き打ちチェックした。

トンネル問題委員は、国家安全保障上問題があるとみなされる地域(特に外部からの監視が懸念される国境の要塞付近や、派閥のトンネル工事用に確保された地域)での建設を防止し、過剰供給を規制するためにトンネル認可制度を導入した。

新たなトンネル建設の許可を得ようとする投資家は土地の所有権を証明する書類や、使用権を公証する書類の提出を求められた。

またトンネル問題委員は商人とトンネル事業者間の紛争の仲裁にも介入し、急激なインフレや、特に燃料の買い占めや価格操作がされていないか市場を監視した。

商人も消費者も、価格の安定と道端でガソリンを売る小商人の排除を歓迎したという。

そして違反は罰せられた。

例えば2009年から10年にかけて、トンネル問題委員はトラマドールの密輸で少なくとも5つのトンネルと、たばこ税の未納で2つのトンネルを閉鎖した。

更に50の非稼働トンネルを破壊し、犯罪容疑者の隠れ家として使われる事やエジプトとの連絡通路としての利用を防いだ。

第二次インティファーダの終わりに初めてこのビジネスに参入した坑道作業員は、「以前は、ハンドガン、手榴弾、弾丸、TNT(爆薬)などの小口貨物の密輸で数千ドルを稼いでいたが、もはやハマスに訴追されるリスクを冒す価値はない」と語った。

トンネル問題委員は更に包括的な税関制度を導入し、ラマッラーを拠点とするパレスチナがイスラエルの港湾で徴収する関税収入を独占しているのを部分的に補う、新たな収入基盤をハマスに提供した。

トンネル地帯の入り口近くの砂の中に埋められた電子計量所でトラックの重量を量り、隣接する小屋で貨物のチケットを取得し、出口で警備員に領収書を提示させた。

2008年9月ラファ自治体は行政手数料を導入し、トンネル運営者に1回限りのライセンス料として1トンネルあたり10,000NIS(2,850ドル)、電力網への接続料として3,000NISを徴収した。

違反者はトンネル閉鎖と逮捕の対象となり、NIS 1,000の保釈金で執行猶予が与えられた。

さらに、エジプトから多額の補助金を受けているガソリンとディーゼル(エジプトでは1リットル当たり約0.5NIS)、調理用ガス(1本当たり30NIS)、タバコ(1箱当たり3NIS)、発電機にも課税がなされた。

ガザ当局はすべての商品に14.5%の付加価値税を課した。

自宅からファタハの旗を掲げたトンネルの所有者は、免許を取り消された。

ハマスの規制は、特に無税事業であったものに課税した後、人々の反対に直面した。

国境地帯の家族や氏族は、彼らの活動への干渉に抗議した。

2007年11月下旬、ハマスが2つのトンネルを破壊した後、ラファでハマス政府軍とアル・シャイール一族の間で武力衝突が発生した。

しかしほとんどの場合、ハマスの支配下で得られるビジネスチャンスは急速に拡大しており、利益を得た。

需要が供給をはるかに上回った為トンネルの運営者は、50キログラムの袋をトンネルで運ぶだけで50ドルを稼ぐようになった。

その10年前、ガザの輸入総額の1パーセントを除く全てがイスラエルから、あるいはイスラエルを経由して輸入されていたが、キャスト・リード作戦の前夜には、その比率はほぼ逆転していた。

トンネルは初歩的なものである事が多かったが、貿易サイクルは一般的にイスラエルのターミナルを経由するよりも速く、税関の仕事も少なかった。

通常の納品は注文から3~5日以内に届き、イスラエルからの占領前の注文よりも早かった。

事業者は需要に迅速に対応した。

イスラエルがガスの供給を減らすと、密輸されたガスボンベがすぐに市場に出回った。

養鶏場の伝染病が報告されると、エジプトからワクチンがガザに入った。

休日の前になると商人達はエジプトから玩具、生きた羊、新鮮な牛肉を輸入した。

エジプトもイスラエルも、このトンネル工事には複雑な反応を示した。

イスラエルにとっては、ガザの貿易がエジプトに方向転換された事で、封鎖に対する国際的な反発が和らぎ、ガザとヨルダン川西岸の溝が広がった。

エジプトにとっては、密輸によってこれまで採算のとれなかった地域から(地方レベルでも国家レベルでも)賄賂を得る機会が大量に齎らされた。

しかし両国はトンネルの成長を、管理はおろか監視する事も難しい安全保障上の脅威とみなしていた。

イスラエルは常に、トンネルがガザの軍事力を強化している事を理由に挙げていた。

エジプトはガザのイスラム主義勢力が外貨を稼ぐシナイのリゾー ト地に波及することを懸念し、国境付近で武器の備蓄を発見したと報告している。

通行を遮断する為イスラエルは繰り返し無人機や有人機を投入してガザのトンネルを爆撃し 、エジプトはトンネルの探知と取り壊しを強化した。

それに対しトンネルの所有者は、設計を改善し、深さ25メートル以上まで掘ることで対応した。

 

キャスト・リード作戦とその余波

イスラエルによるガザへの度重なる攻撃は、2008年冬から9年にかけての壊滅的な「キャスト・リード作戦」で頂点に達した。

ガザにいるハマス支持者達は、戦争中トンネルがハマス高官の逃亡経路として機能したと主張したが、ラファ国境への空爆はトンネル網に深刻な損害を与え、その結果、商業交通は一時的に停止した。

一方、陸・空・海の封鎖は完全に継続された。

国際的な仲介による停戦の一環としてイスラエルは、ガザに供給される密輸ルートに対して行動するという米国の合意を取り付けた。

この合意は、数週間後の2009年2月5日、コペンハーゲンで開かれた紅海での国際的な海軍パトロールとスーダンの空中監視に焦点を当てた、米国と欧州数カ国の当局者の会合で強化された。

これとは別にエジプト政府は1年以内にガザとのトンネルを封鎖する為に、ガザとの国境沿いに深さ25メートルの地下鉄製バリアを(米軍の監督の下で)建設すると約束した。←この時点で既に米軍がハマス地下トンネルを滅茶苦茶詳細に把握してたって事です。現在、ハマス司令部が地下にあるとホワイトハウスが独自に評価している事にも関係してる可能性があります。10年以上前から米軍はガザの地下を熟知していた。

2010年末までにガザとの間のトンネルを固形廃棄物、砂、爆発物で入り口を塞いだり、汚水で通路を水浸しにしたりするなど、様々な手段で約600のガザとのトンネルが破壊されたようだ。

この際トンネル内への催涙ガスやその他の方法で、群衆をトンネルから追い出す手段が取られた事により、数名の死者が出た。

この事は、エジプト治安当局が「パレスチナにどのように対処するか」について変化を齎した。

以前はトンネルの入り口で荷降ろしの為にローリーが止まっても、エジプト当局は見て見ぬふりをしていたが、2009年5月以降、彼らは......シナイの供給者の家、小屋、農場、商店を襲撃するようになった。

とはいえエジプトの対策は、その方針表明とはまったく一致しなかった。

エジプトは当初からガザとの国境付近の地下が石だらけの地盤なので、深さ4メートル以上の鋼板を打ち込むのが困難である等と対策が取れない理由を挙げていた。

密輸から得られる賄賂を見送ることにも難色が示された為、公式にはガザトンネルを使ったトンネル経済遮断を実行する決意は更に揺らいだ。

エジプトの治安部隊は多くの場合、最も浅く発見されやすいトンネルを標的にし、より深い位置にある重要で収益性の高いトンネルはそのままにした。

そしてトンネルの活動が最も集中している場所では、トンネル遮断板の整備が遅々として進まなかった。

ハマスが包囲を強行したムバラク政権を非難する連帯ネットワークを構築に成功した事で、エジプトの政治的意思は更に低下した。

業を煮やしたアメリカ議会は、2011年半ばに地下鉄壁バリアへの技術支援を停止した。

経済的利益だけでなく家族や一族の結束を動機として、エジプト側のベドウィンとパレスチナ人もエジプトの安全対策に抵抗した。

「我々はパレスチナの為に働くパレスチナ人だ」とエジプトのラファでトンネル労働に従事する労働者は語った。

エジプトの警備を妨害する為に、ベドウィンの活動家達はシナイの地形に精通している武装した氏族防衛委員会を利用する事もあった。

ベドウィンの非正規兵と密輸品を押収するエジプト軍との衝突が散発的に報告されている。

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2015年、エジプトがラファとエジプトを結ぶ地下トンネルに注水している様子。https://youtu.be/dslTB3sLEK8?si=wytz2Qviru7C4vlq

 

トンネルの拡張と戦後復興

その一方で「キャスト・リード」作戦終了後の停戦によって、ハマスが部分的に破壊されたトンネルの修復をし、複合施設の大規模な改修を監督する事ができるようになり、その作業を進める為に税金を引き下げも行なった。

エジプトの摘発を恐れて、オペレーター達はトンネルの長さを1.5キロメートルまで伸ばし、地下40メートルまで深くした。

作業員達は先ず木の板で坑道を補強し、次にセメントブロックや金属で坑道を補強して、坑道崩壊の危険を冒す事なく原材料が通過できるような拡幅をした。

坑道に投げ込まれたロープの梯子は電気エレベーターになり、ウインチで引っ張られる長さ4メートルのそりは炭鉱と同じようにレールの上を走る荷車に取って代わった。

2年も経たない内に、能力は10倍になった。

2010年後半には、大型の商業用トンネルが1日あたり最大170トンの原材料を輸送していると推定された。

家畜を輸送するトンネルの数は、2008年の3本から2010年半ばには少なくとも30本に増えた。

また長いトンネルはエジプトの治安当局に見つかりにくく、トンネル内の状況も大幅に改善された為、損失や被害も減少した。規模の経済と供給源の多様化により、コストも下がった。

2011年の夏までに取引業者の60%が、イスラエルからの商品の価格がプレジージ・レベルと同等かそれ以下にまで下落したと報告。

例えば、1リットルの燃料(当初は砂だらけのソーダペットボトルで販売)は、2008年にはイスラエルの4倍の価格だったが、2009年には、燃料(3/4インチのパイプで毎時20,000リットルの割合で汲み上げられる)はイスラエルの4分の1の価格で販売された。

2011年半ばまでに、トルコのセメント(ガザはエジプトの低品質製品を嫌っている)の価格は、2008年半ばの閉鎖の最盛期には1トンあたり1,500ドルだったのが、プレジージ価格の100ドルにまで急落した。

トンネルについて「現在、地下トンネルは少なくとも1,500はあります。そのほとんどが以前より大きく、良くなっている。その結果、価格競争が激化しみんなの仕事が減った」との証言もある。

キャパシティが改善され、価格が平均的なガザンの人々が買える範囲にまで下がった為、需要は拡大した。

家庭用品の取引業者は、2008年から2010年にかけてトンネ ル経由の商品輸入が60%増加したと報告している。

2010年半ばまでにガザの小売業者は、イスラエ ルの制限に起因する品不足が「合理的な程度かそれ以上」軽減され たと報告した。

卸売業者は、商品の補充に追われた。

2009年半ばにはそれまでガザで3つに切断されて届き、到着後溶接されていた自動車が、ブルドーザーによってトンネルを通りそのままの型で到着するようになった。

カダフィがキレナイカから撤退し武器庫や港の守備が無くなった後、ガザの需要を満たすためにガザトンネルの運営者はリビアから到着した密輸品、特に自動車を仕入れた。

またトンネルの拡張は資材や原料の輸入を容易にし、ガザの戦後復興が始まった。

世界の指導者達が、シャルムアルシェイクの高級ホテルで開かれたショーケース会議(実質中身のない会議)で数十億ドルのガザ復興支援を約束しながらも、イスラエルにガザへの建設資材の輸入禁止を解除するよう説得できなかった一方で、トンネルによってガザの人々は自分たちの居住区を再建する事ができた。

キャスト・リード作戦の直後、オペレーターたちがまだトンネルを修復している間に、ガザの人々は瓦礫を砕いて砂利を作った。←建設資材として再利用した様です。

オスロ後のイスラエルとパレスチナ人の短期間の協力関係を象徴する、砲弾で粉々になったガザ北部のエレズ工業団地と、破壊された欧州連合(EU)出資のガザ南部空港は砂場と化した。←工業団地や空港は建設資材用のプラントの様に活用された。

トンネルが整備されるとオペレーター達は重い資材を運び始めた。2011年半ばまでには毎日3,000トンの砂利、500トンの鉄の棒、3,000トンのセメントが到着するようになった。

ガザは建設現場と化した。

道端にはエジプトからの建築資材がうず高く積まれていた。

世界銀行によると、2011年上半期の着工件数は220%も増加した。

国連はイスラエルが搬入を許可した資材に基づくと、「キャスト・リード」作戦で破壊された6,000戸の住宅を再建し、5年間の閉鎖期間中の人口増加に対応するには80年かかると見積もっていた。

しかし実際のところ建設ペースがあまりに速かったため過剰供給になり、2012年半ばには不動産業者が「新規の購入希望者が見つからず苦労している」と報告があった。

回復し始めたのはガザの住宅ストックだけではなかった。

農民達はイスラエルによる種子、農薬、灌漑用パイプ、鍬やバケツといった基本的な農具の輸入禁止を回避するために、トンネル輸入に頼った。

投入資材が手頃な価格になったことで、工場の操業再開も進んだ。

ハマス当局者は2011年10月までに、「キャスト・リード」作戦で破壊された1,400の工場の半分が生産を再開したと主張した。

ある食品加工工場は防腐剤、エジプト製のプラスチック包装・梱包材、予備部品など、イスラエルが禁止した品目がトンネルを経由してスイスから到着した後、操業を再開した。

結果、トンネルの拡大はそれまでのガザ衰退の大部分を急速に回復させていった。

2005年から2009年にかけてガザの一人当たりGDPは実質ベースで39%縮小したが、トンネルがもたらした救済はせいぜい限定的だった。

しかし「キャスト・リード」作戦後の2011年9月の世 界銀行の報告書によると、トンネルは「例外的に高い成長」をもたらし2011年 前半には28パーセントを記録した。

失業率は「キャスト・リード」作戦前の45%から、2011年半ばには32%まで低下した。

ラファの市場は夜遅くまで買い物客やカフェ客で賑わい、裏通りにあるATMの利用者も増えた。

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トンネル主導の復興の限界

しかし、世界銀行がガザの例外的な成長を喧伝していた時でさえ、ガザの本格的な復興を阻む構造的欠陥は根強く残っていた。

供給がすでに需要を上回っていた中、イスラエルが2010年6月に(マヴィ・マルマラ支援船事件に対する国際的な反発を受けて)ガザへの商業製品の輸入禁止を解除する決定を下した事で、市場の品薄が引き起こされた。

持続可能な成長をもたらす輸出がほとんどない為、ガザの消費は上限に達していた。←輸出産業が無い為にガザ内部での需要も限界に達した。

2010年までに供給ラインは改善され、市場は飽和状態になり、需要を上回った。

激しい価格競争は、トンネルの収益と価格を更に急速に押し下げた。

これまで仕入れをトンネル経由の輸入に限られていた小売業者は、イスラエルの取引先とのかつての関係を復活させた。

2010年末までに、ガザにある1,100のトンネルの半数以上が操業を停止し たと報告されている。

生き残った坑道は効率化を進め営業時間を短縮し、労働力を削減して、商業的に存続できるようにした。

イスラエルが燃料などに重税を課したり、禁 止したりした為である。

禁止した物には殆どの原材料、「二重用途」と定義されるすべての品目(建設資材、機械、化学薬品、スペアパーツなど)、そしてほぼすべての輸出品が含まれていた。

「イスラエルのブラックリストは密輸業者のグリーンリストだ」と、トンネルを経由して苗床用のエジプト産サボテンを輸入している著名なガザの実業家はコメントしている。

2012年春になると、経済がトンネルの導線を通じて達成可能な限界に達している兆候が、次第に目につくようになってきた。

パレスチナ中央統計局が発表した2012年第1四半期の数字によると失業率は上昇に転じ、それまでの高い成長率は急激に後退した。

エジプトがラファ・ターミナルの通過増加を容認しているにも関わらず、ガザに住む24万人の難民の若者の殆どは飛び地から出た事がなく、その51%が失業したままである。(ガザはパレスチナ自治区から切り離された飛び地になってるから、ガザの事が飛び地と表現されています)

エジプト当局は、シナイ半島からガザに向かうタンクローリーの入港を制限し続けているので、ガザは一晩中暗闇に包まれている。

水平線にはイスラエルの軍艦が巡航しており、イスラエルがガザの海に3マイルの制限を課している事をまざまざと思い起こさせる。

陸・空・海に挟まれた行き場のない感覚は消えない。

ムバラク退陣後、当初トンネル経済は好景気に沸いた。

国内安全保障体制が軌道に乗ると、エジプトに残された障害は消滅した。

エジプト領内の奥深くに設置されたトンネルの口が国境近くに現れ、その過程でエジプトのラファの住宅ストックに明らかな打撃を与えた。

地下の鋼鉄製バリアの建設は正式に中止された。

トンネルの所有者達は資材の押収は殆どなくトンネルの口を形だけ破壊し、賄賂の要求が極端に減ったと報告している。

欠席裁判で判決を受け、逮捕を免れる為に多額の賄賂を渡していたエジプト人事業者の多くが恩赦を与えられた。

エジプト国内では継続中のガザ封鎖に対する反発が高まり、ベドウィン武装集団の活動が活発化した事でトンネル密売人は更なる保護を受ける事になった。

カイロに配慮してハマス側は当初から旅客輸送の為の商業トンネルの使用を禁止していたが、ムバラク政権が崩壊するとこの方針を撤回した。

一方、エジプト新当局は、大々的にラファ・ターミナル通過の制限を緩和した。

緩和されたとは言え規制がまだ残っていた為、ガザトンネルは煩わしいラファターミナル通過を回避する高速道路として機能しました。

旅客輸送を規制する為トンネル問題委員は事前調整システムを導入し、ラファ・ターミナル経由の横断申請は2カ月かかっていたのを、2日で完了する様にした。

更にラファの踏切は午後5時(後に午後8時まで延長)には閉鎖されたが、トンネルは24時間稼働した。

パキスタンの学者やリビアから逃れてきたパレスチナ人労働者、休暇を過ごす家族連れなど、あらゆる旅行者がトンネルを利用したが、特に15歳から40歳の男性入国希望者(その約35%は一般的に安全上の理由でエジプトへの入国を禁じられていた)は恩恵を受けた。

以前は数百ドルに達していた横断費用は、100NIS(30ドル)にまで下がった。

規制の緩和は、包囲のもう一つの過酷な側面である輸出の禁止を緩和する役割も果たした。

金属くず(シナイ半島で製錬され、建設用およびおそらく軍事用の鋼棒として再輸入される)、ダップル競走馬(エジプトの高い需要により、ガザから姿を消した)、弾薬(2011年のエジプト革命で需要が急増した)、余剰農産物(スイカ、リンゴ、卵など)などがその例である。

とは言え、労働コストと購買力が低いエジプトは、ガザで生産され る農産物の殆どは競争力を持てなかった。今までイスラエルとヨルダン川西岸 のマーケットを相手にしてきたガザの製造業は、こうした状態の安いエジプトマーケットへの適応 に手こずった。

この為エジプトへの輸出は靴、整髪剤、携帯電話などの重課税品目を含むエジプトからの需要がある、イスラエルからガザ商人が仕入れた商品の再輸出が中心となった。

しかしムバラク政権崩壊はガザにとって恩恵を齎すとガザの人々は思っていましたが、逆にトンネル経済を崩壊させガザ経済を苦しめ始める事となった。

ハマスに率いられているガザの住民は、ムバラクが失脚し新たに政権を担った軍事政権がイスラエルによるガザ包囲網を解体し、陸路でのガザ⇄エジプト輸送を可能にすると期待していたが、そうならなかった。

エジプト軍事政権はガザに対して新たな弾圧を始めた。

エジプト軍事政権(エジプト軍事最高評議会)は補助金請求額を削減する為に、多額の補助金が支給されていたエジプトのガソリンをガザに運ぶタンクローリーの運用を中止した。

一部の燃料はトンネルを経由して供給され続けましたが、以前の包囲の最も過酷な日々のように、ガザでは再び1日最大18時間の燃料供給停止が発生した。

燃料不足は生活を不便にするだけでなく、復興の原動力を奪った。

ガザ内部では、ハマス政府はアラブの目覚めから齎される初期の利益を過大評価した傲慢さが広く非難された。

ガザの運命がエジプトと益々複雑に絡み合う中、軍事政権の優位性はムスリム同胞団の内政問題への集中とともに、ガザとエジプトの貿易関係の見通しに暗雲を投げかけた。

 

勝者と敗者

ハマスがガザを支配しトンネル取引のスポンサーとなった5年間はガザに変化を齎し、その影響は民衆レベルでも感じられるようになった。

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国会議事堂を始めとする政府庁舎、警察署、モスクなどの公共インフラは、イスラエルの「キャスト・リード」作戦による砲撃で破壊されたり、深刻な被害を受けたりした。

しかしハマス政府は輸入税による収入と、重量物や機械の輸送が可能なトンネル・インフラの拡張を武器に、インフラを修復しアップグレードした。

ガザ・シティ自体も、著名なランドマークの美化、砂地の舗装、港の浚渫、信号機の設置、南の海岸リビエラの再建に着手した。

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イスラエルによるガザ人労働者の出入り禁止、製造拠点の砲撃、輸出市場の閉鎖(ドナー資金による開発プロジェクトの大幅な減速以上)による失業で疲弊した経済において、トンネルはガザ最大の非公認の雇用を生み出す場となった。

トンネル産業は、かつてイスラエ ルで雇用されていた建設労働者をガザ地区全域から引き つけた。

2008年の平均日給は75ドルで、パレスチナの公式発表によればガザの賃金中央値の5倍であり、イスラエルのユダヤ人入植地を建設する西岸パレスチナ人の収入よりも多かった。

トンネル労働は若者の最大の就労先でもあった。

学校を中退し、1日の収入20NISの露天商をしていた若者達は、トンネル内でその10倍の収入を得ていた。

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その後市場が飽和し、エジプト人労働者に頼らざるを得なくなった為、日給は80NIS程度に下がったが、それでも農夫の4倍の賃金であった。

完全に機能している坑道はそれぞれ20~30人を雇用しており、2010年までに坑道産業は、約5,000人の坑道所有者が2万5,000人の労働者を雇用し、ガザの人口の10%にあたる約15万人の扶養家族を養っていると推定された。

地元経済が好転した事で、ガザ・シティには新しいホテル、レストラン、ビーチ・カフェが溢れ、トンネルによって出現した新たな富裕層だけでなく、ストリップに戻った亡命者(時にはトンネル経由で)、さらにはシナイ北部からの訪問者までもが集まってきた。

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ガザの新しい高級ホテル、アル・マシュタルは、楽観的にカクテルグラスを買い求め、西岸から訪れたビジネスマンたちは、最新モデルのスポーツカーやハマーを、ラマッラで見かけるよりもずっと早い時期に、ガザの路上で見かけると不満を漏らした。

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不動産ブローカーは、消費力の増加による乗数効果が不動産価格を3倍に押し上げたと語った。

とはいえ、ガザのマクロ経済成長の数値は、新たな富の分配に大きな格差があることが隠されていた。

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地理的に見れば、繁栄は新たな雇用機会を齎すものであった。

かつてガザのイスラエルへの玄関口であったバイト・ハヌンは不況に陥ったが、それまで飛び地で最も不況だったラファは好景気に沸いた。

ラファの失業率はハマスによる占領前夜の約50%から、2008年12月には20%にまで低下した。

貿易も同様の変化を齎した。

イスラエルのアシュドド港を経由する貿易ルートが衰退する中、ガザは40年ぶりにエジプトとの商業関係を復活させた。

ガザの伝統的な商業エリートはこれまでイスラエルや西欧の供給業者と関係を築いてきたが、スーダンまで南下する古くからの非公式な貿易ルートを利用する新世代の密輸業者によってガザでの地位と影響力がますます低下し、彼らは供給源をエジプト、中国、トルコへと急速に多様化させていった。

従来の商業エリートが外国語を旅行や教育を通じて習得したのに対して、密輸業者の新しいブルジョワジーは教育を受けていなかったが、国境を越えた一族のつながりやガザのイスラム主義支配者の後ろ盾があった。

こうしてトンネルは上昇志向と社会変革の重要な原動力となり、以前は疎外されていた集団に力を与え、新富裕層を生み出した。

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伝統的なビジネスエリートを更に侵食した坑道所有者達は、その資金力を利用して川上から川下へとビジネスを多角化し、独自の代理店網を構築して市場占有率を高めた。

坑道使用料を免除され、商品の運搬から得られる市場情報に通じていた彼らは小売価格を引き下げ、卸売業者の配送よりも自社の商品を優先し、更に消費者に直接販売する様になった。

時には価格を抑制し、卸売業者を破綻寸前まで追い込む為に市場を独占する事もあった。

私達が何をしても、トンネル・オーナーには太刀打ちできません。

彼らのお陰で、私達の収入は少なくとも70%減りましたと、長年ガザで農業資材を専門に扱ってきた商人、アラ・アブ・ハリマは不満を漏らした。

西側諸国が支援するNGOや国連は、国連の基準によってガザの密輸品の購入を禁じられていた為、ガザの復興活動が阻害されていると不満を募らせ、イスラエルのガザ包囲網を終わらせるよ声高にキャンペーンを展開した。

国連職員は、国連による米国主導の経済規制がガザからのトンネル物資を入手する事を禁じ、その結果、逆にガザ住民がハマスに依存し、規制がハマスを優位にしていると主張した。

難民の家族は、彼ら(およびガザ地区の人口の4分の3)を保護する役割を担っているパレスチナ国連救済事業機関(UNRWA)に依存するよりも、ハマスにますます頼るようになった。

国連中東和平プロセス特別調整官は、ガザでの国際社会の影響力が低下している事を懸念し、2010年5月に安全保障理事会に提出したブリーフィングで、「非合法なトンネル取引が盛んな為、密輸業者や武装勢力が商業を支配している。2011年初めからイスラエルがガザでの国際的なプロジェクトの為の建設資材の輸入を緩和すると宣言した後でさえ、ガザでのすべてのプロジェクトはイスラエルの承認を得る事を義務付けている為、人々は密輸業者や武装勢力に依存している。時間がかかり面倒でコストがかかるからだ。」と表現している。

その結果、密輸業者や武装勢力は豊かになり益々力を持った様だ。

エジプトとガザの国境付近のベドウィンの人々も、特にサワルカ族、ラマイラット族、タラビン族といった主要な一族を中心に、トンネル通商から大きな利益を得た。

トンネルの収益は豪邸を建てる為だけでなく、ベドウィンの防衛委員会を武装させる為にも使われた。

「10年前、私の一族は全員、3台の車を持っていました。今では各家庭に3台の車がある」とラファのベドウィン商人は言う。

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国境によって何年も隔てられていた家族や一族が、ガザの新しいレストランで社交的になった。

ガザとシナイ半島の社会的・経済的交流が深まっている事の表れとして、一部のパレスチナ人実業家はトンネルで得た利益をエル=アリシュ周辺の不動産に投資する事で資金洗浄し、地価の高騰を促した。

ガザ人は、収入だけでなく武器庫もシナイに輸出し安全に保管しようとしているのではないか、との疑惑が絶えなかった。

同時にガザと国境を接するシナイの一族と、イスラエルと国境を接する一族との経済的な格差が拡大し、両者の摩擦が高まった。

イスラエルは、イスラエルへの密輸ルートを絶つ目的で、国境沿いに240キロの壁を建設したが、緊張は高まるばかりだった。

紅海沿いの観光業というシナイの正式な経済が急速に衰退したことで反感が高まり、時には暴力的になることもあった。

更に不安定さを増したのは、ガザのハマスに抑えられたベドウィンの一部がトンネルを通ってシナイに渡り、血で血を洗う抗争を繰り広げたからだった。

 

ハマスとトンネル

ガザ住民にとっての地下のライフラインはハマス政権にとっても救いであった。

ハマス政権は包囲によって政権崩壊を企てたり、社会不安を煽ったりしようとする複数の敵の攻撃から生き延びようと抵抗していた。

時が経つにつれ、トンネルはハマスがガザに対する支配を強化し、米国主導の国際的な金融規制を回避する事を可能にした。

銀行筋によるとトンネル問題委員は2009年に1億5,000万ドルから2億ドルの収益を上げ、この数字はトンネルの通行量が増加するにつれて2010年も上昇し続けたが、イスラエルが閉鎖を緩和しエジプトがガザ行きの燃料を制限した後は先細りとなった。

その結果ハマス は、国際社会とダマスカスを拠点とする指導者の両方から、資金面での影響を受けぬよう回避していっった。

前述したように、政府は時間の経過とともに収入に対する支配力を強めていった。

2007年のガザ占領後、内務省はカッサム旅団に代わってハマス政府による商業トンネルの支配を再確認した。

それ以降、同省は坑道を規制するだけでなく坑道収入の徴収を担当し、予算支出を賄うために自らの口座に直接入金するようになった。

余剰資金は中央政府に送金されたが、他の閣僚は、内務省の税収に対する事前の主張が満足のいくものではない事に不満を漏らした。

2011年、政府はハマス運動とパレスチナ立法評議会の支持を得て、同省がすべての領収書を単一の国庫口座に預け入れるが、支出は優先されるという合意に達した。

こうして状況が正規化された事で、アラ・リフアティ国民経済相は2011年の就任直後から、内務省の職員と並んで200人の税関・物品税担当官をトンネルの飛び地に配置し、課税を執行することができるようになった。

課税基盤の拡大を通じて、ハマスがイスラエルとパレスチナ自治政府からの経済的独立性を高めたが、イスラエルとパレスチナ自治政府は、ハマスが雇用する約7万人の職員への給与支払いを継続した。

ハマスが2006年の選挙公約で掲げた、「イスラエルにパレスチナ経済を事実上完全に支配させる」という、オスロの1994年パリ議定書からガザを解放することで、その実現に一定の前進も見せた。

エジプトとの直接的な貿易関係の発展はイスラム世界との結びつきを強化し、イスラエルとの関係を低下させるというハマスのイデオロギー的なビジョンも強化した。

あるハマス関係者によれば、包囲は不幸中の幸いだ。イスラエルと60年に渡る援助から我々を引き離し、自助努力の手助けをしてくれているのだと語っています。

トンネルを統治する事による収益から得られる資金・資源を武器に、ハマス は自らを、社会的・慈善的ネットワーク、地下運動、ゲリラ部隊を持つ非国家主体から、設備の整った国内治安部隊、官僚機構、経済を持つ統治当局へと変貌させた。

商業トンネルと、エジプトのシナイ住民のガザとの交易への経済的依存の高まりは、ハマスにシナイ半島における影響力を与えた。

全体として、シナイ半島におけるエジプト国内の治安部隊が(少なくとも一時的に)消滅し、同時にガザの軍事力が増大したことと、ガザがエジプト政府と経済的、社会的、文化的に引き離されたことが相まって、ハマスに近いオブザーバーたちは、ハマス運動がガザ近郊のエジプト内部で戦略的な深みを増していると評するようになった。平たく言うと、シナイ半島等のエジプト住民を経済依存させる事によりハマスシンパのエジプト人を増やせた。

もし本当にガザがエジプトのシナイ半島等の、ガザ近郊地域の重要な拠点に成長すれば、シナイ半島の安定を望むすべての当事者は、ガザを考慮に入れなければならなくなるだろう。

とはいえ、ガザのトンネル経済は透明性、説明責任、財政の適正さに対するハマスの評判を落とす事にもなった。

「ガザトンネルへの批難は旧態依然とした急進運動(イデオロギー的な反発)ではない」とガザの経済学者は指摘する。

ハマス当局は当初からトンネル協同組合の役員にハマスのメンバーを任命する事を条件としてトンネルの使用許可を与えており、ハマスに都合よく優遇的な条件でトンネルの使用許可を与えているとして、広く批判されていた。

ガザトンネル利権を牛耳り、甘い汁を吸っていると批難を受けました。

ハマスは著名なハマスの伝道師によって推進され、多くの投資家が貯蓄を失ったトンネル投資のマルチ商法から手を引くという決定を下し、国内での信頼性を初めて大きく損なった。(※ハマスはトンネル建設費用を捻出する為に詐欺のマルチ商法やねずみ講を人々に売りつけていました。)

その後イスラム主義者も世俗的な反対派も、ハマスがそれまでファタハを弱体化させる為に使ってきた腐敗の言説を口にする様になった。

一方カッサム旅団の一部は、ムハンマド・ダーラン率いる予防治安部隊と同じような利潤追求の評判を得るようになり、かつての特徴であった抵抗活動とは無縁になった。

ハマスのスポークスマン、ファウジ・バルフムを含む何人かの著名な幹部は、トンネル経済と強いつながりを持つ家系の出身であり、トンネルの保有資産を守っていると見られていた。

ガザのミドル・エリア出身のサラフィー・ジハードはこう表現した。

政府に入る前、ハマスの信奉者達は宗教的な説教とコーランの暗記に集中していた。

今、彼らが最も興味を持っているのは、金、トンネルビジネス、詐欺だ。ハマスは以前は楽園について話していたが、今は土地や車、アパートを買う事を考えている。

夜の礼拝の後、彼らは勉強に行ったものだが、今はイマームが金儲けの方法を考えている。以前はモスクで祈っていたが、今は家で祈っている。

ハマスがトンネルの収益の使い道について透明性を欠いている事が、疑惑を深めている。

ハマス当局者は、地元の収入は2011年の政府の年間予算7億5000万ドルの半分を占めると述べているが、地元の実業家たちは、収益はかなり高いと計算しており、資金がどこに使われているのか、なぜ毎月の公務員給与の支払いが何度も不足するのかについて疑問を投げかけている。

ハニヤ政権が税負担を増やしている為、説明責任を求める声が高まっている。(国家経済相は就任当初、イスラエル・レベルの関税を住民に免除する為に、ガザのパリ議定書からの脱退を求めたが、4ヵ月後にはパリ議定書の税率に合わせて関税を引き上げる意向を表明した)

児童労働によるトンネルでの死亡事故については、2008年まで遡ってハマス政府が調査し抑制を検討していると公言していましたが、人権団体から批難を受けハマスの評判を傷つけた。

2011年12月、筆者が同行することを許されたハマストンネルの警察のパトロールで見られたのは、身軽な体が重宝され作業員として利用される児童らの姿でした。

ハマス当局によれば、少なくとも160人がトンネル内で死亡している。 ※ガザの平均年齢は2014年時点で18歳くらい

輸入品の安全管理も同様に甘いようだが、ハマス当局は16人の部隊で散発的な抜き打ち検査を行っていると主張している。※トンネルを管理しているのはハマス自身なので知らない訳が無い

結局のところ、トンネルはハマスにとって複雑な袋小路となっている。

ガザにはハマストンネルのハマス利権や児童労働を非難してる勢力がいるが、彼らはイスラエルのガザへの経済的締め付けの影響を、トンネル経済が軽減した事を渋々認めている一方で、ハマス組織内部の汚職への疑念を深めていた。 ※資産5000億円以上を誇るハマス指導者のマシャルやハニヤらはガザトンネルの利益からも莫大な富を築いたのだと思われる。

2012年春の燃料不足の際には、ハマスの指導者達には途切れる事なく電気が供給され、ガソリンスタンドはハマスのメンバー専用に営業を続けているようだという疑惑が広まった。真偽のほどはともかく、ハマスが包囲網から利益を得たという逆恨みムードが高まった。

 

長くなりましたがざっと翻訳解説するとこんな感じです。 今までメディアが見せていたガザのイメージとは随分実情が違いますよね・・・こんな実態を日本メディアも、中東を専門とされる方々も日本国民には一切見せていませんが、どういう事なのでしょうか?

ガザの件、「天井のない監獄」とテレビやメディアは盛んに報道してますが、実態と違いますよね。
何故か地下経済の話や、トンネルセレブの話を情報封鎖していました。
https://globe.asahi.com/article/14649258
おそらくガザを徹底的に被害者ポジションに置く為だったのではないかと思われます。

調べれば調べる程ガザは報道からイメージされていた様子と異なっており、アフガニスタンなんかと比較にならない程ガザは裕福なので何かおかしいです。

少なくとも天井の無い監獄という表現は正しくなく、圧倒的な力を持つ支配層と、貧民との奴隷と支配者の関係があると思われます。
そんなガザで力持ってるのは地元のアラブの豪族ですが、彼らの歴史は古く、ムハンマドがメッカからガザを訪れた西暦600年代に遡れます。

ガザトンネル事業はハマスやアラブ豪族の利権で、滅茶苦茶儲かってたのが調査すると窺い知れます。

後、重要だったのがエジプト政府がガザとのハマストンネル遮断する為に米軍が協力し、遮断用の埋設鋼鉄シールドの技術をエジプトに提供していた事です。
その時から米国政府はハマストンネルかなり調べてたみたいで、トンネルに合わせた埋め込みシールドをエジプトに考案していた位です。

だから、今回、ハマストンネルについてアル・シファ病院の地下にあるとか評価して発表したのかもしれません。

10年以上前の話です