こちらはInstagramで、「金融の正しい知識・リテラシーを高めたい、米国への留学・正しい大学事情が知りたいのに、偽物、商材屋しかない。日本には詐欺的なマーケティングばかりしかないから困っています。コミニティカレッジ出身とかでない本物のアイビーリーグ本校を卒業した高学歴、院卒、そして現役のエリートを知りたいです。」とフォロワーさん達からの要望で始めます「徒然ウォール街」です。
エグゼクティブ(重役)をやられた時期も多く、NYCの大学で日本人相手の就活の講義はもう何度も行われ、またウォール街の会社ではリスク管理や自己資本のルールのセミナーを長年ホストされており論文も出版されている本物にお願いしてみました。
確かに今尚ファンドやなんやで稼げる「本物」はsnsには居ませんからね。常識的に考えたら当たり前ですが・・・
米国ウォール街に興味があるor働きたいお子様を持つお母様達や、これから米国企業で勤務する方々の為に、キャリアを積み重ねられたJUNさんに、日本で言われてる事とはまるで別世界のウォール街のリアルや、留学からモルガン、シティ、HSBC等の一流企業の数々で活躍するに至る経緯を話して貰う為に新たに作ったコンテンツの記事です。
今回は先ず、JUNさんの自己紹介をして貰っています。
濃い本編はこの次からスタートします。(こちらはウォール街現役から直接情報提供して貰いますので、当然、別料金のサービスとなっています)米国に語学留学や就職をしたい人には必見のコンテンツです。月¥2,700円です。
Jun Kuma
日本生まれ育ち。東京某四大化学専攻卒業後、日経バブル景気を顧みず渡米。アイビーリーグMBAファイナンス専攻後、ウォール街にてJPモルガンを始めメガバンクを転々とし三十余年が過ぎた。
前置き
この五年ぐらいの間でしょうか、日本の若い人達から様々な相談を受けるようになりました。どうやって日本を飛び出してウォール街に就職したのか?その前にそもそもどうやってビジネススクール(MBA)に入学できたのか?ウォール街は実際どんなとこなのか?などなど。この度mei様からそういったいきさつ、ウォール街あるいはニューヨークシティ(NYC)の現実などを書き綴ってはどうかと話を持ち掛けられ執筆となりました。手始めとしていきなり業界ネタではなくそもそもどうして日本を出る決意をしたのかということでよろしくお願いします。
日本を飛び出す決意、その1
私はとある日本の田舎で生まれ育った正真正銘の日本人。ただその日本人、日本社会と言う事に関しては、大学生になるまで基本全く考えていませんでした。子供の頃から一度は広大な砂漠と摩天楼のあるアメリカに行ってみたいと思っており、大学二年生の春休みに2か月かけてのアメリカ縦断貧乏旅行をしました。NYCでは友人の友人がそこに住んでいて、その方に気に入られて色んな所に連れて行ってもらいました。ありがちな観光名所ではなく、そこで生活するニューヨーカー達の集う最新のギャラリー、レストラン、等を連日引きずり回されました。そしてその方にニューヨークを去る直前に言われました。「この街にはあんたのような人がいっぱいいる」と。それを言われた時は「え?そうなの?何を根拠にそう思うの?」と内心思いました。
生まれ育った実家では暴れまくっていた
貧乏旅行中唯一撮影された写真
さて2か月に渡る貧乏旅行も終え成田に到着、そこから特急に乗り東京のボロアパートに向かいました。そのとき電車のつり広告が目につきました。雑誌広告でしたが「ゴクミ(なんとかかんとか)」という見出しでした。それを見た瞬間、私は人生を大きく変える決断をしました。
この国を出る、留学だ、と。まもなく東京のぼろ屋に帰り、先ずは実家の両親に電話し無事帰国を告げました。そしてその二言目には留学したいと言いました。当時の田舎では長男が家を継ぎ次男は自立というのが当たり前。で我が家の場合は次男である私には学費などの支援は惜しまない、と一応そういう事になっていました。それもあり留学したいと言い出したのです。後日両親は全面支援を約束してくれました。その後の今に至るを思い返しても親には頭が上がりません。
「ゴクミ」こと国民的美少女と呼ばれた後藤久美子さん
ここで我ながら面白い点はあり得ないスピードで人生一大決断をしていた点です。しかしそうなるほど自明の証拠が積もりに積もっていたならではと言う事だったのです。そのゴクミさんですが当時私から言わせればどうしてこうも日本の芸能界はロリコンでいつも騒いでいるのか、どこでどう生活しようがゴクミは今何をしているかを無理やり知らされるとか。ネットのない時代、テレビが情報の主導権をがっしり握り国民全員毎日ロリコンアイドル動向をテレビなどを通して叩き込まれる毎日でした。しかしそれが日常であるとその異常さには全く気付きにくいのが人間です。
初めてNYCに行ったときに持っていた地図。この延々と続く碁盤目の都市、異様な魅力を感じました
アメリカ貧乏旅行、実は予定を変更してNYCに三週間いたのですが、案内をしてくれた方は実に知性あふれるアート界に超詳しい人でした。またNYCは当時犯罪も多く子供には向かないけどもの凄い大人の街だとも言ってました。毎日実に刺激的な話をされながら最新アートコレクションの解説を事細かにしてもらいました。でその直後にゴクミつり広告を見て「え!」となったのです。ロリコンアイドルで盛り上がる日本全国とついさっきまで巡り歩いた「大人の街」との対比。
たったの2か月ですが日本を始めて出てほんまもんのニューヨーカーと行動を共にして気が付いた異常な光景だったのです。毎日当たり前に見ていたつり広告、そしてその当たり前がどういう意味なのかを知らずに暮らしていた毎日。そのつり広告が明日も明後日も永遠と流れる日本、自分には無理かも、と瞬時に判断したのでした。
日本を飛び出す決意、その2
大学では化学を専攻していたのでアメリカのできればニューヨークにある化学大学院留学を先ずは目指しました。大学三年の夏休みは一か月NYCに滞在し、相当数のキャンパス巡りをしました。ネットのない時代、資料を集める方法は限られ現地を訪れるのはその環境を検証する意味でも有効でした。日本で調べた大学リストからあれもこれもととにかく行って入学要綱をもらってきました。
二度目の渡米時に撮影した今は無きワールドトレードセンター
さてその化学留学というアイデアが大学四年で大きく変わりました。実は大学一年の時に猛勉強をして学科内ですぐにも評判になるほどでした。学科内で最も難しいとされていたとあるクラスのテストで満点を取り同級生みなひっくり返りました(とここで何気なく自慢をするJun)。その難関講座の教授にもそのころから大変期待されその教授の研究室にしっかりと入れました。研究室に既にいた大学院の先輩も含めメタクソ期待感が高かったのを覚えています。そしてそれに答えられる自信も十分ありました。そしてそれをばねにして化学留学というシナリオです。
当時猛勉強した有機化学の教科書、今見るとさっぱり何のことかわからないのにかつては完璧に理解していたとは
しかしそのサクセスストーリーは開花する事がありませんでした。逆になんとその私にもの凄く期待をかけていた教授から、いじめと形容すればいいのでしょうか、あっという間に嫌われる存在となってしまったのです。彼に可愛いがられている人達を観察して気付いたのが、彼はおべっか使いが好きで私のように化学、というか科学という物理的な事実探求を真とし、それが年功序列のルールとは全く関係ないという態度が許せなかったようでした。
これは信頼する先輩も同様に困難を経験していました。
理工学部研究室にて
それでふと閃いたのです。そこの研究室には優秀な人もいっぱいいるが研究室としてはクソ面白くもない論文しか出してない(というJunの心境を多分教授に読み取られ嫌われたのであろう)。これはもう化学の問題ではなくマネジメントが失敗の原因だと。そしてそのマネジメントの重要さについて化学研究傍らしみじみと考えました。それは人を使う以外に自分のキャリア、人生においても大事な事だと。何をするにも材料、時間、様々な制限がある。その流れを上手く読みどう対応するかという臨機応変の能力、これってルールの中で社会生活をする人間としては最も大切なスキルではないかと。
そう考えている内に化学留学という熱意がさーッと冷め、そして方向転換したのがMBA留学でした。当時の日本はバブル景気で、企業がエリートをMBA留学させるのが流行りでした。一応MBAがどういうものかはなんとなく知っていました。化学熱意が一気に冷めた事もあり、MBAとは何?と気になり調べた結果「俺にはこれだ」、と結論。
調べれば調べるほどこれしかないと熱くなる自分を感じました。
そのように結論付けたのには研究室のドラマ以外にも多大な要素がありました。まずは実家が自営業で両親が運営していました。自分で率先して全てをこなし良きも悪きも自己責任という世界です。普段はそれこそケチとも思われるほど節約、しかし肝心な時には多くの人が真似のできない思いきりの投資をして全力投球という感覚も幼くして体感しました。
てもう一つは、そういう環境で育った延長でしょうが、大学三年生の時にサークルを立ち上げ部長として2年間頑張って数々のイベント企画、参加をこなしてきました。留学先のアメリカという国、そしてその文化を考える上でリーダーシップの大切さを感じ、そう言えば自分にはそういう気質が間違いなくある、と勘違いでもなんでもいいのですがそう思い込みました。
因みに父親が留学支援承諾のメッセージと共に東京の私に電話をかけてきた時に初めて聞かされた話がありました。それは彼が若き日に田舎から大阪へ初めて行った折にあまりにその街の凄さに感動して実家に帰る事なくそのままそこに住み着き職人としての修行をしたとのこと。そしてその経験がのち自営業として花を咲かせる糧にもなったのです。私が留学を初めてのアメリカ旅行直後に言い出した点はまさに「この俺においてこの息子あり」と思ったようでした。そう、NYCから日本にとりあえず帰ってきただけでもまだましな方だったという事だったのです。しかし大まかに同じ年頃に同様の決断をしていたという点、DNAのパワーは実に凄いと思いました。
DJサークルの部長をやっておりました
出張DJを頼まれたとき、部員との一コマ
デジタルミュージック演奏もやりました
日本を飛び出すそのとき
当時の日本はバブル景気で大学院生は内定先の企業からお金をもらいながら学生をするのが当たり前の時代でした。また私の学部は理系卒ながらいわゆる文系就職をしたのがクラスの半分にもなっていました。そんな中かつては猛勉強をした化学を棄てそして故郷日本を離れ「何とかする」という意気込みのみでNYCへの片道切符を手にしたのでした。荷物もスーツケース1つで引っ越し荷物のようなものは皆無という身軽さでした。実は出国時点ではどこかの大学院に入学が決まっていたわけではなくただひたすら「何とかする」意気込みだけを頼りにでした。実に無謀な事をよくもやったものだと自分でも思います。
見送りには大変世話になった先輩が来てくれました。彼のその時の言葉は一生忘れられません。「Jun、お前ほど化学の才能あるやつが、あのボケ教授のお陰でその道を断念する事にしたというこんな最低な教授はいない」といっていただけました。泣けてきましたね(泣かなかったけど)。でその彼がその場を去り研究室で隣の席にいた友人は成田空港までついてきてくれました。時間いっぱい昔話を面白おかしく話し、時間になったのでじゃあバイバイ、と軽く言ってゲートをくぐり振り向いては手を振る友人を見続けました。そして間もなく通路を曲がりそうすると手を振る彼の姿もそれで見えなくなり前を向いて歩き始めたその瞬間です。ボロボロと涙が出てきました。
自分でも意外だったというか全く予期せぬ状況でした。あとで思ったのですがそれは悔し涙という要素が強かったのです。卒業したばかりの大学、実は第一希望ではなかったのですが化学の世界たるもの、化学物質は物理化学的な真理がルールであり、そこに学位、出身大学は関係ない筈。という理念もの基猛勉強していたのです。そして順調に行っていた学業が研究室で木っ端みじんになりそして化学の道を断念、努力が水の泡と化したわけです。それはもう悔しいです。いや、これは言い過ぎかもしれません。その断念の決断は自分がしたわけですから。あほ教授のせいではなくあくまで自分が決めた道だ。しかしそれと共に一人で「何とかする」という意気込みのみでやっていかなければいけない、異国の地でゼロからやらなければいけない、という点で本心実は心細くもあり感極まりない状況でした。
卒論の冒頭より。研究室の体質をさらりと猛烈批判
若気のいたり
あの頃の事を毎日思い出しては感慨に耽る、などと言う事はおよそないですが、しかしこうして久しぶりに思い出してみるとなんとまあ実にとんでもない一大決心を瞬時にするし、訳も分からず飛び出すわ、今の自分なら絶対にやらない事をよくやった、と。いや、これはしかし若き日の百万馬力があり「何とかする」という意気込みだけで結局何とかなったのです。日本のマスメデイアに対するなんとなくの疑問、研究室という閉ざされた封建社会、それらを踏まえ「この街にはあんたのような人がいっぱいいる」といわれたニューヨークに私は引き込まれ気が付いたらマジ、なんとかなっていたのです。
日本を離れ渡米後に撮影
最後に
私のところに相談に来る若い人に必ず言うことが世の中何が起こるかはわからない。しかし一度決めた道を突き進む努力は大事だと。そして「何とかする」というアドバイスにおよそならない要素が実はひょっとして最も大事なことだと。とある賢者の伝記にあーだこーだと書いてあることを実行したら同様になるかといえばそれは期待できないでしょう。予想はできないが臨機応変に対応し不確定な中、地図もなくしかし切り開く能力、これこそがその「何とかする」力です。そしてそれは自分には言い訳をしないという不動心でもあります。
「何とかして」獲得した卒業証書より
という訳で今回は締めにいたします。
Jun