留学ブーム幕開け
私が大学院留学を決意した頃は、ちょうど急激に円高が進んだ時代で本格的な「留学ブーム」の始まりでもあったようです。お陰でその関連商売も世に溢れ始める形となったのです。そのブームは様々な形の留学というものを作りだしました。そして残念ながら私に言わせればその過半数は金と時間の無駄遣い、ことによっては人生下り坂への道というのが現実だと確信しました。ではそのブームが始まりいったい何が起きていたのでしょうか?私がアメリカの大学院を卒業する傍ら身近に見た例を交えて話を進めましょう。結論から言えばまともな留学をこなすのは地道に大変な事だと。
ドル円為替チャート
留学の準備
大学二年生にして大学院留学決断後、ネットのない当時、その手引きは図書館で調べるか本屋に行くかのどちらかしか基本ありませんでした。その手の本を探してみると結構な数の留学手引き本が出版されていました。立ち読みする限り大体のネタはほぼ全ての本においてこのような感じだったと記憶しています。「広大なアメリカ全土にわたり世界的権威あるアメリカの名門大学数々。日本のトップ東大よりはるかに高度な歴史ある名門大学が国としては日本に比べはるかに歴史の浅いアメリカにはあるある。太陽光のまぶしいフロンティア精神みなぎるカルフォルニアのキャンパス、あるいは摩天楼に囲まれた金融心臓大都会ニューヨークに隣接するキャンパス。はたまたアメリカ学問界最高峰を誇るハーバード大とそれを囲む名門が連なるボストン、そしてそれに通う明日を担う若き多様な人々。その中に紛れてネイティブ英語を話すクラスメイトと論議を重ねひたすら明日を夢見て勉学に励むあなたが主役。そして卒業の暁にはアメリカンドリームを掴んだも同然。」
大体このような夢物語がつづられていたというのが強い印象でした。見れば見るほど非現実のありえない夢を売られているだけでまともな留学準備のクソの役にも立たないものばかりでした。
と、あるとき異色の本を見つけました。タイトルは確か「失敗だらけの留学」というようなやつでした。「留学成功への道」ではなく随分といきなりネガティブなタイトル、バラ色留学ネタばかりの中逆にこれは目を引き購入決定。
本当は失敗だらけの留学なのか?
その本は私の性格には完璧ともいえるほど痒い所の奥にまで手が届く感触でした。なんとなく感じていたのですがその本には留学たるもの失敗が殆どでこれがその原因と例、という感じで延々と失敗談が綴られてありました。読めば読むほどまともな感覚の人間なら留学を断念する内容でした。留学を成功させるには先ず膨大な資金、遠く離れた海外生活での孤独さに耐えうる精神力、誰も頼りにせずやる抜く根性、すぐ近くに助けてくれる人がいない環境、言葉の危ういやつは即置いてけぼり、これらの難関を超えてやっとその辺のアメリカ人と同じ土俵に。そういえば学校で更に勉強して落第せず卒業をそもそもしなければならない。そう、成功する留学は困難を極める、と。
厳格なオヤジがバカ息子にだからお前は青いんだと説教をするかの如くの内容でした。がしかし最後に一言、これらの事情をすべて顧慮しそれでも覚悟を決めてなら成功の可能性はあり、というような閉め方が確かしてありました。これまた厳格オヤジの一瞬のやさしさとでも言いましょうか。その本を読んで結局随分と勇気づけられたというか気持ちの上でものすごく覚悟を決められた気がしました。留学は日本での失敗から逃げる場所ではないと。その本には日本でろくでもなかったやつが留学し更に堕落したという話がありました。アメリカ人でさえやっとのことで入学、卒業する名門大学、そこを外国人がのこのこやってきて何とかするはただごとではないと。当たり前ですが留学すれば全て上手く行くという勘違い感覚が蔓延っていたのも事実です。そしてその勘違いが生まれた土壌づくりに参加したのは留学ビジネスだったとも言えるでしょう。
語学留学
この「語学留学」という言い回しですが、元々の留学という言葉の意味を随分と軽くしてしまったものと考えています。と言うのもこれは誰でも入れる語学学校に行くと言う事だからです。また語学留学をしたとしてそれが経歴上何か有利になる事があるかといえば皆無と断言できましょう。明治の偉人達が留学し大日本帝国発展の糧となった、とは真逆の行為ともいえます。また語学留学なる事を例えば履歴書に書いたとして、その時点で問題有りと判断されかねません。英語学校へ行ったからといって英語が全く上達しない連中も多々、というのが現実でもあります。考えてみればネイティブ英語を話すクラスメイトが皆無の中での英語勉強、確かに無理があります。しかしながら大学、大学院へ通う前に大学付属の語学学校へ行かされる、というのも入学条件としてありえます。もちろんハイレベルの英語学習クラスです。つまり語学学校たるものは誰でも入れながらクラスによってはそれなりの勉強をできる場でもあるうる、ということになります。
さてここで爆弾発言といいましょうか。語学留学を随分とバカにしておきながら実は日本出国時にはその大学付属語学校入学ということで学生ビザを習得。何の学位にもならない学校に通うということでのアメリカ入国でした。そう、日本脱出アメリカ行き片道切符を手にしたときはその語学留学ビザのみでまさに何の保証もない状態だったのです。
大学を卒業した同期は早速景気のいい何とか証券その他に就職。理系離れが言われた当時は理系就職者にはこれまた優遇も。その傍ら Jun は何の保証もない、悪く言えばただの英語留学で最悪英語学校終了後行くところもなく、帰国をするか違法滞在という哀れな結末。のこのこ日本に帰ったとして大学卒業後語学留学をしてこの度帰国、御社への就職を希望します、と上手いこと言ったところで、そういう若造は日本では当然門前払いが多い事だったでしょう。
やはり最低な語学留学
三月大学卒業後、 四月 渡米、そして五月にその「語学留学」の授業が始まりました。まずはその前にクラス分けのテストがありました。幸いレベルの最も高いところに入れました。ちなみに一番低いレベルは英語が全く分からないに等しいぐらい、下手すると母国語の国語力も劣りそうな連中、というほどでした。それはともかく実際にクラスが始まると希望と不安両方の気持ちが膨らみました。希望としてはやはり実際に行動をしているかのような自分、これが今なすべきことでそれをしっかりこなしていると言い聞かせる自分。逆に不安なのはこのまま突き進んで先があるのか、という疑問。
五月以降夏の期間に始まる語学学校は日本も含め世界中から若い人達が集まる場でした。そして直ぐ気が付いたのがアジア系に限ってはその九割以上がただ大都会 NYC で語学留学という遊びに来ている人達が殆どでした。また当時アジア系の内訳は日本人と韓国人が殆どでした。そして死刑宣告ではありませんが、その語学留学生の中に混じっているのが自分自身だという現実。ある時クラスは別でしたがカフェテリアでとある日本人男がクラスで知り合った日本人女性に向かって「あのクラスはまた日韓戦争ですか」と言っているのが何故かもの凄く印象深く心に残りました(現にその発言後30年以上たった今もはっきり覚えている)。
その「日韓戦争」発言した彼とその彼女ですが、ともに英語を勉強する気は皆無、NYC にいながら日本人以外の付き合いなし。そして彼らの目からも明かな夏の語学学校に来ているのは遊んでいる日本人と韓国人だらけ、お互いろくに英語が話せずそれぞれ日本人、韓国人としかグルになれない。それでクラスが二つに分かれて「日韓戦争」という形容。的をえてるとも言えますが、その情けないバカバカしさの露呈でもありました。
クラスは違うとはいえ、外から見れば語学学校に通う「あほ語学留学生」というのに自分が正に当てはまっている状況は許せないと共に、どうして俺はこんな状況になってしまったのか、、、という半ば後悔の気持ちもありました。とある夏の夕方、マンハッタンの横を流れるハドソン川の夕焼を眺めながら、これからどうすればいいのか、と思い切り落ち込み途方に暮れながら景色を眺めていました。普通ドラマの展開上ここで夕日に向かて「バカヤロー」と叫ばなければいけない状況でしたがそれどころの気分ではありませんでした。ただ未だにその夕焼の景色は忘れていませ
ん。そしてその状況から何とかしなければ人生が終わる、ぐらいに危機感を覚えました。
その撮影場所反対方向には今は無きワールドトレードセンターがそびえたっていました(同日撮影)
語学留学生仲間の悩み
英語学校のクラスメイトは当然アメリカ人以外の世界中から集まった人達でした。その中にいた日本人数人と仲良くなりました。大半の語学留学日本人は遊びに来ている連中で、仲良くなった人々はほぼ全員これから大学院に通う人達ばかりで入学先は既に決定済み。その中でまだ先が決まっていなかったのがこの私とあともう一人いました。
そのもう一人ですが私と全く同様に大学を卒業後に日本を飛び出しいずれはビジネススクールへ、と目論んでいました。同様な事を考えていた人がいたわけです。しかし彼はいずれそれを諦め帰国、そして手紙が届きました(当時今どきのメッセージやメールは当然ない時代、国際電話も一分百円とか)。
その手紙には泣く泣く帰国後苦労はしたものの、何とかまともなおよそ誰でも知っている大企業に就職できたと。志を同じくし励ましあった友人がやむなく夢をあきらめ去った姿は実に悲しい事でした。明日は我が身です。
日本人以外で英語学校に集まる様々な人たちもおよそ大学、大学院入学希望、そしてその夢を熱く語る二十歳前後の皆さん、残念ながらそういった希望が叶う人は殆どなし、皆諦めて帰るでした。中南米から来ていたとある彼女は、ビザの問題その他諸事情がややこしくどうしていいのかわからなく将来を悲観し泣いている事がありました。やはり「失敗だらけの留学」は本当だったのです。そしてそれは日本人のみならず世界中の人達にも全く当てはまる現実だったと。
バブル経済を後にしたというとんでもないリスク
世界中から若者達が集まっていた英語学校ですが、後進国から来た人達も多くいました。その人達からしたら、くそったれの生まれ故郷を捨ててアメリカンドリームを夢見るのは全然不思議な事ではありません。しかし日本という国を後にするというのはどういう事になるでしょうか?私が日本を飛び出した時代、今では全く想像できないほどの繁栄ぶりを思わせられるデータがあります。
1991年末付けの銀行ランキングを見れば当時の日本のとんでもない状況が明らかになります。あの頃はまだバブルの余韻に浸っており誰もその後の衰退ぶりを予想する事ができる訳がない状況でした。世界の銀行ランキング、トップの 1 から 7 までがすべて日本の銀行、そしてトップ 30 のうち 18 が日本の銀行。このような世界情勢でわざわざ日本を出るという事がいかにハイリスクだったか理解できるでしょう。行先のアメリカですが 29 位にランクインしているシティーバンクがアメリカ銀ではトップのランキング、そして正にそのしがないレベルの金融をやっていたアメリカに乗り込んでいたのです。優雅に就職したクラスメイトを横目にとんでもないリスクをとる行動をしてしまった、余程の成果を出さなければ笑いものになるどころの話ではない状況でした。
1991 年銀行ランキング。日本の銀行がトップを占めつくしていたという今では全く考えられない状況
がむしゃらになった、ならざるをえなかった時
残念ながらアメリカに渡り半年も経たない内に絶望を感じていました。「失敗だらけの留学」第二弾は「失敗だらけの留学」を読んだにも関わらず結局失敗した Jun の体験談、間抜けな事に日本の大学時代のクラスメイトは更に上がる日経平均にのりボーナスジャンジャン、方やのこのこ帰国した Jun は就職難、バイトで細々と繋ぐ。というような悪夢を想像したりもしました。
どうしていいか当然誰も教えてもくれない中、しかしながら次の手を模索している内に発見しました。一番レベルの高い英語クラスにいる場合は大学学部の授業も取れるという事を。そしてどういうクラスが取れるかを調べたところなんとビジネススクールの教授が学部レベルで教えるクラスを発見しました。そしてマーケティングとファイナンスの基本という授業を登録してそわそわしながらそのクラスに通い始めました。MBA のクラスを教える教授の授業ということもありそれはもうメタクソ集中してとにかく頑張りました。それこそ訳も分からずこのクラスを全うすることが次に繋がると信じ切り正にがむしゃらに勉強しました。
日本の大学受験も大変な思いをしましたが、今回は後戻りできないと言う事もあり、更なる真剣勝負でした。面白い事にクラスメートのアメリカ人から声を掛けられ一緒に勉強したいというようことを言われました。そういえば語学学校では外国人だらけでネイティブアメリカ人がいるわけない。新たにとり始めたマーケティングとファイナンスの授業は、アメリカ人だらけで外国人は自分だけ。その中で普段の授業中の発言などから気に留めてもらえたのでしょう。
声をかけてくれたのはイタリア系移民の方でした。親子でイタリアからアメリカへ、彼女が確か七歳の時のことだったと。全く英語が分からずもの凄く苦労したとのこと。その話をする彼女の英語は全くのネイティブそのもので驚きました。そして彼女は私のような立場の人の苦労はよーく分かる、何かできる事があれば助けるとまで言ってもらえました。そんな事もあり、勉強の方は上手くいっていました。
因みにその二つのクラスですが、それを勉強している方が遥かに英語の勉強になっていました。まずクラスがそもそも基本ネイティブ英語を話すクラスメイト、また高度な学問ができる英語での語学力も前提、その中にいる事で必然的に語学力も上がりました。最初のステップだったとはいえ語学学校だけに通っていた時はなんなのだったかと。
谷に落ちることなく渡った危ない橋
この後も色々とあったのですが、結論から言えばマーケティングのレポートは高評価を頂き、ファイナンスの教授に至っては彼の方からあんたビジネススクール入りたいなら私が推薦して絶対入れてあげるとまで言ってくれました。その教授は実に世話好きというか大変お世話になりました。彼曰く、企業派遣の日本人 MBA 生徒は、全くクラスの討論などに貢献しないのが殆ど、というようにかなり悪いイメージを持っていました。逆に私の様に個人で来ている人には大変高評価をする方でした。そしてその後晴れて大学院入学が決定しました。この様に危ない橋を延々と渡り、なんとか落っこちる事なく生き延びれたのです。
英語学校で繰り広げられ続ける「日韓戦争」で爆死した何百人もの戦死者、また世界中から集まり苦労の甲斐もなく帰国して行った様々な国の若い人達。今でも思い起こせば、その人達の顔が浮かんで来ます。
自分なりにもの凄く頑張ったと自負はしてますが、しかし人生はそれだけで全てが回るわけでは当然ありません。運も良かったと思っています。やはり今思い起してもとんでもない人生の賭けをしていたと。しかし何とかしていたのです。
英語が好きな日本人、その1
さて、ビジネススクールへ晴れて通う事となったわけですが、一時帰国の時、実家の親から頼まれたのが親の知り合いの娘さん、当時高校生の人が私から留学あれこれの話を聞きたいので会いたい、と。当然快く引き受けました。実家の近くの喫茶店で私の父を含めその知人と娘さんの四人で会いました。店に入ると既にその親子二人が待っていました。その時私は見落としませんでした。彼女は英語の教科書を持っていました。この Jun に会うのにわざわざ英語の教科書(ニューホライゾン)を持ってきている、何者?とちょっと悪い予感がしました。
ニューホライゾンの英語教科書、当時の物ではありません
それはさておきどういう英語の勉強をしてきたかなどなど自分のいきさつを説明しました。因みに塾は基本通った事がなく、英語に関しては NHK のラジオ番組基礎英語と英会話というので大変勉強になりました。色々と話をした後その女子高生のお父さんが「ところでどういった学校に入学されたのですか?」と聞かれたので「ビジネススクールです」と答えたら「あ、あの専門学校の?」という受け答え。娘さんの教科書とは全く違う方向で悪い予感が当たったような気がしました。「いえ、一応(…)大学院です。」と答えると「あーそうですかー」というお言葉。申し訳ないですがその時点で彼女は留学はやめておいた方がよさそうだと直感しました。
英語が好きな日本人、その2
と、そういえば思いだしました。まだ東京で大学生だったころ大学の英会話クラブかなんかに入ってみました。英会話上達の為に色々な工夫をしているのが感じられたのですが、現実は私の肌には合わず直ぐ辞めました。まず二人一組になり五分毎それぞれ英語で何かしらの話をするのです。でそれを順番にすると。ただこれをやっていて何度も経験した問題がありました。私と当たった人ほぼ全員、もの凄く一生懸命英語で五分話すのですが、聞いている私は何の事だかさっぱり分からない事が殆どでした。そしてその全員、表情はなんとなくのスマイル、随分得意になっているというか幸せそうに話をしていました。初めからその雰囲気を異様だと感じていました。そして気付いたのですが、そのクラブに来ている人達は英語を話している自分に酔っている、と。
英語をぺらぺら話す自分はかっこいいんだ、と言わんばかりの雰囲気。そもそも聞いている人(聞かされている)が全く理解していなくてもどうでもいいのが明らか。そのクラブで本当に一生懸命真面目に勉強していた人には申し訳ないですが私には実にくだらない場でした。
英語が好きな日本人、その2.1
得意になって下手くそ意味不明な英語を話すのは何も大学での英語勉強会に限ったことではありませんでした。一時帰国で東京のとあるお好み焼き屋さんに行きました。カウンターに座り隣には日本人女性と白人男性のカップルが座っていました。別に聞き入るつもりは全くなかったのですがその彼女の話す英語があまりにでたらめで以前入会した英会話クラブどころではない英検四級以下とでも形容すればわかるでしょうか。しかしあの英会話クラブ参加者同様彼女は一生懸命とにかくたくさん喋っていました。そしてその白人男は紳士気取りなのかなんなのか、まったくでた
らめな英語を話されても何か受け答えをそれなりにしていました。
最初はこの彼はよくやるなーなんて思いました。がすぐ気が付いたのがそういえばこの彼の目的は別に言葉がしゃべれなくてもいいところか、と。そして彼女も英語をカッコよく話して自己満足、晴れてこのカップルお互いの目的が達成され言語上のコミュニケーションはできてなくても体を使ってそれをしてめでたしかと。意地悪なJunは内心その白人男に言ってやろうかと思いました(しませんでしたが):“Do you fucking understand what the fuck she is talking about? Or you just want to fuck?”
もしもこれを言われた彼ははっとしたことでしょう。またそれを同時に聞いている彼女はこれまた意味が解らなかったでしょう。そして最悪その彼女がでたらめ英語で私に話し始めるという地獄の展開が待っていたことでしょう。
ちなみに普段私が話す英語ですがその fu…何とかも含めて基本そういう言葉は全く使いません。Fu..は強調する意味で使われることもありまた行為をする動詞の意味でも使われます。最初の Do you の文で使われているのは強調の意味、Or の文では動詞という訳です。
英語が好きな日本人、その2.2
私の実家でも同様な悲劇がありました。うちの父は大勢の人を自分の家に呼び込み宴会をするのがとにかく好きな人でした。一時帰国時に実家に帰ってそれをやられると逃げ場は当然ありません。しかし凄腕の寿司屋と仲良くしていたうちの父親、うまいものが食べられるしまあいいかと。一生懸命飲んで食っての Jun に知らないオッサンが話しかけてきました。なんと英語でです。一応聞いてはいたのですが何を言っているのかさっぱりわからない。「あのーアメリカから帰っては来ましたが日本人です。日本語でお願いします」みたいなことをそのオッサンに言いました。そ
したら「オーノー、イングリッシュ、ほにゃららなんとかぺらぺらほにゃらら」と再び何を言っているのかさっぱりわからない。もう一度日本語で、と頼んでもこの酔っ払いオッサンは英語とはいいがたいしかし本人は私に英語で話しているつもりで何かうなり続けていました。もう逃げるしかありませんでした。
英語が好きな日本人、その 3
きりがないのでその3で終わりにしますが大学生の時の友人、確か一度就職したはいいけど何かしら悩みがあり「自分を見つける為に語学留学する事にしました」とニューヨークに手紙が届きました。そう、あのころ(今も?)女性が「自分発見」の為の一人旅、あるいは語学留学、というのが流行っていたと記憶しています。嗚呼、私の友人もその一人になったわけです。因みに「自分発見の旅」ですが、およそ馬鹿な自分を発見する事は無く終わるのが殆どだと考えています。
久しぶりに NYC で再会した事は当然大変嬉しい事でした。しかし残念ながら彼女はあの日韓戦争予備兵レベルであるのが明らか。正直な話自分の人生をかけて飛び出しやって来ている自分の真剣さ、後が無い状況と比べ日韓戦争参戦後にのこのこ日本に帰るというのが見え見え、友人としてがっかりしないわけにはいきませんでした。
そして細かい事はここでは省きますが、その彼女、ある日ぶらぶらしていて日本人男に声をかけられました。そしてなんとその日本人男に襲われてしまいました。彼女は彼女なりに勇気を絞ってその事を泣きながら私に打ち明けました。外国の地でなんとなく、あるいはもの凄く寂しく思う中、その心の隙間にまんまと入り込む悪い奴がいる。彼女はその餌食になってしまったのです。
異国の地で日本人が日本人をターゲットにして襲っている。なんという悲しい事でしょう。
短い語学留学を終え彼女は日本へ帰りました。見送る私の方をタクシーの中から見ているあの姿、あの街の情景は今でもよく覚えています。変な意味で自分発見ならぬレッスンとなってしまった事でしょう。
彼女のこの経験は何となく決めてしまった語学留学、そして犯罪大都市ニューヨークで日本人をターゲットにした悪党日本人の餌食になってしまったという恐ろしい話です。そう、一歩日本の外に出ると悪い奴らがいるいる。華やかな語学留学はその正反対の結末となった例でした。
当時日本語新聞の記事になった原稿から
最後に
語学留学どころか駅前留学などという言い回しまでできた始末、そしてそういった特に日本にある英語学校はビジネスでありまた通う人達もとにかく英語が好きで好きでしょうがない、そしてそれだけで終わっている、という人がいるのも確実です。
駅前留学にしろなんにしろ、日本で英語を習う際に、先生が白人でないとなんとなく不満に思う日本人はこれまた多いと予想しています。また留学とビジネス英語上達を目指す方々も当然いるでしょう。ただ私自身の英語学校そして大学院入学に至るまでに多くの日韓戦争犠牲者また世界中の人達の沢山の失敗留学の現場目撃者となってしまいました。
また運というか自己責任ではありえない事柄も十分働きました。あの日本に帰った彼こそがビジネススクールに行き、私が帰国を余儀なくされていたかもしれなかったのです。
そして最も運が良かった事の一つが、自分では全くコントロールできない日本及びアメリカの経済状況です。日経平均は 30 年以上最高値を付けられず、大学の同級生で文系、金融就職をした人達は、低迷する株価の中とんでもない目に遭った事が想像されます。
逆にアメリカではダウ平均は同じ期間に 15 倍程に増えました。大学院卒業そしてウォール街で生き残る努力は、私自身がした事ではありますが、国レベルでの勢いに乗る、あるいは振り落とされるは自己責任ではなく運としか言いようがありません。かつての世界銀行ランキングからは全く想像できない展開となったのです。
若い時は本当に気力も体力もあります。そう、私は留学という戦争に勝ち生き残ったとも言えるでしょう。確かにすべてをかけて戦ったのです。また運にも助けられました。そして今の私はそこまでの気力も体力もなく兵役からはリタイアし、戦争で勝ち得た領土で悠々と平和を生きるかの如くとなりました。というより生き残ってやってきている自分があるという事に有難さを感じるばかりであります。そして私に相談に来る若者には無益な戦争に巻き込まれないよう助言を惜しまないようにも心掛け、そして「グッドラック」と呼び掛けています。
Jun