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ガザの歴史

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https://youtu.be/zdq3NVtT6Nc?si=BRE1qy9YpDy1ECxz

ガザの歴史

これだけ話題になっているガザですが、かつてガザがどんな歴史を持っていて、どんな国が支配していたのかは意外と知られていません。
テレビではほぼ近代しか見せていないので、ここでは古代から見ていきましょう。

 

ガザの歴史は4000年に及び、元々カナン人の居住地

※カナンという名前は、「約束の地」にまつわる地域として聖書全体を通して登場します。カナン人という呼称は、南レバント(現在のイスラエル、パレスチナ、ヨルダン)やカナン地域に住んでいた様々な先住民族の総称です。
カナン人のDNAが調査され2020年発表された科学報告では、カナン人の遺伝子が現代のユダヤ人やアラブ人の多くに残っている事が明らかになっています。

研究チームはイスラエルとヨルダンに点在するカナン人の遺跡5か所に1500年に渡って埋葬されていた73人の骨から古代のDNAを抽出し分析。

研究者らは古代のDNAと現代人のDNAを比較し、この地域の殆どのアラブ人とユダヤ人のDNAと類似している事を指摘しています。

つまり、カナン人はこの地域のユダヤ人やアラブ人の祖先なのです。

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カナンの地について

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エジプト初期王朝がガザを支配していた時代

紀元前4千年頃、カナン人の領土だったガザにエジプト初期王朝時代の都市テル・エス・サカンが古代エジプトの要塞として建設されました。

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テル・エス・サカンは現在までにガザで発見された唯一の青銅器時代前期の遺跡です。ガザ市の南5キロに位置し、1998年に集合住宅の建設中に偶然発見されました。この遺跡の面積は 8 ~ 12 ヘクタールで、青銅器時代初期 (紀元前 3300 ~ 2200 年) を通じ継続的に居住されていた証拠が示されています。

カナン地域に建設されたこのエジプトの基地は、エジプト古王国時代にアラビアとを結ぶ陸上交易路の重要拠点として活躍。エジプト第一王朝時代に放棄された様です。

カナン人定住時代

ガザはその後、経済的理由で長らくエジプトに放棄されていましたが、紀元前2500年頃に地元のカナン人がテル・エス・サカンに定住し、その後、テル・アル・アジュルとして知られる都市部を拡大していきました。

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ガザ地区では約3,600年前(紀元前1580年位)に遡る豊かな交易都市テル・エル・アジュルの発掘調査が行われています。

考古学者らは古代世界の主要な交易路ガザにあった町テル・エル・アジュルで、見事な金の宝飾品、スカラベ、キプロス陶器等を発見しています。エジプトの影響からか、イメージするより栄えていたのかもしれません。

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カナンを拠点とし、エジプトにまで攻めあがるカナン人

紀元前1650年までにエジプトをヒクソス人(ヒクソス人と呼ばれていますが、カナン人と言われています)が占領。

https://youtu.be/3aXbdah-YlY?si=G5T6b4MEK0-DBDqi

この頃カナンでは最初のテル・アス・サカンの遺跡に第二のカナン人都市が発展しました。この都市は約1世紀後、ヒクソス人がエジプトから追い出された際に合わせて破壊されました。

https://youtu.be/QrqsAEUfvfg?si=h5fASIhgxcR6pQL_

※ヒクソス人はエジプトのナイル・デルタに侵入し、紀元前1650年から1550年まで支配しました。彼らの出自は不明ですが、考古学者達は彼らがカナン人であったという仮説を立てています。

この仮説を裏付けるように考古学者達は、エジプトのヒクソスの首都アヴァリスの発掘調査でカナンの主要都市アシュケロン(現在のイスラエル南部地区アシュケロンがある場所。ハマスのロケット弾が良く飛んでくるので最近よく報道されている地名です)で作られた遺物と殆ど同じものが大量に発見された事を指摘しています。

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エジプトを一時支配したカナン人とされるヒクソス人について。

現代の歴史家はヒクソス人の首都アヴァリスがあったテル・エル・ダバ遺跡から出た証拠に基づき、ヒクソスがカナン人であったと考えています。

物的証拠は、ヒクソスがレバント(現代のイスラエル、エジプト、レバノン、トルコ、ヨルダン、シリア一帯)から来た事を強く示唆しており、彼らの名前が「西セム語」の名前だった事からヒクソス人はカナン人であったと考察。

ヒクソスはおそらく「異国の支配者」(ヘカ・カセ)を意味するエジプト語です。

 https://youtu.be/VSXXftphs-0?si=Gr3Z12tVXDjjSbO3

謎が多いヒクソス人ですが、強大なエジプトまで支配したヒクソスは人気があるテーマです。日本ではアジア起源と紹介される事が多いですが、カナン人である可能性が高い。

ガザをファラオ・トトメス3世率いるエジプトが支配

エジプトは最終的にヒクソスをナイル川デルタから追放し、中央集権政府を再確立しました。 (紀元前 1539 ~ 1075 年頃)ヒクソン人が敗れた後、紀元前1458年、ファラオ・トトメス3世率いる戦車と1万人の歩兵でなる軍がガザを猛攻し、現在のイスラエル北部にあるメギドでカナン人の首長国の連合軍を破ります。

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 紀元前 1469 年に戦われたこのメギドの戦いとは、ファラオ トトメス 3 世のエジプト軍とカデシュ王率いるカナン人連合との大規模な戦争でした。

戦いは現在のイスラエル北部に位置するメギド市付近で行われており、現在知られている最も古い戦争の1つではないかと言われています。

https://youtu.be/XAcDYIthorY?si=Gtkez0jATAwIn-TF

※戦いのあったメギドは肥沃なエズレル渓谷にある賑やかなカナン人の都市国家で、当時の国際商品貿易の中心地でした。

メギドは皆さんも良く聞かれる「ハルマゲドン」の語源になった場所とされています。

ハルマゲドンは、キリスト教では善と悪の最後の戦いが行われると予言されている場所です。

ハルマゲドンという単語はヘブライ語の「ハル・メギド」(メギドの山)のギリシャ語訳です。

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⇧実際のメギド。現在発掘調査が行われており、当時カナン人がワインを嗜んでいた事など生活ぶりが判明してきています。

 カナン人連合はメギドでファラオに敗れ去ります。

エジプトは再びガザに定住し、テル・アル・アジュルの跡地で発展。

このガザの都市はカナンにおけるエジプトの行政首都として機能し、この地域のエジプト総督の居城でもありました。

エジプトはカナンを、ミタンニ王国などさらに北のライバル帝国に対する緩衝地として利用した様です。

カナンでは女性が奴隷として売られる事もあったが、税金、貢物、貿易による収入もありエジプトが潤っていたようです。
エジプトはエルサレムのような主要都市に小規模の守備隊を駐屯させ、行政首都を創設。これらのセンターにはエジプト建築の建物があり、象形文字が刻まれていました。

その後、350年間エジプトがカナンの地を統治しました。

しかし、カナンにおけるエジプトの地位はファラオが予想していたよりも早く終わります。

カナンが海上からの侵略者から度々攻撃を受け、食料不足を引き起こすほどの深刻な干ばつに見舞われた事により、エジプトの植民地支配は紀元前1200年頃から崩れ始め、ほころびは北から始まり徐々に南に広がりました。

やがてエジプトは地中海全域との貿易関係と、カナンの貴重な前哨基地であるガザを失いました。

海の民ペリシテ人が隙をついてガザを支配。

その後、ガザを含むカナン地域はエーゲ海と文化的な繋がりを持つ海の民ペリシテ人に支配され、ペンタポリス(ペリシテ人の最も重要な5つの都市国家の連合体)の一部となりました。

https://youtu.be/tb8NMYGyLTM?si=vA8HvsnaByCLly39

 パレスチナという名前は、カナンの地に住み着いたこのペリシテ人に由来すると指摘がなされています。

エジプト人とヒッタイト人が残した権力の空白を利用して、海の民ペリシテ人が紀元前 13 世紀後半にレバント(カナンを含むこのエリア)で一連の攻撃を開始。

ユダヤ人はペリシテ人はクレタ島からカナンの地へ渡ってきたと指摘しています。

近年、ペリシテ人の起源を探る調査も行われており、ペリシテ人が支配していたアシュケロンで見つかった紀元前 12 世紀の幼児のDNAを調べたところ、ヨーロッパ人の祖先を持っていたことが判明したと報告がなされています。

クレタ島はペリシテ人のDNAと最もよく一致する場所の一つだったようです。

https://youtu.be/mzEMjNckCZ8?si=IOdfUoKo8MYf7407

ペリシテ人は、南海岸平野に有名なペンタポリス、ガザ、アシュケロン、アシュドド、ガト、エクロンを建設。

近年、ガザ以外の地域では近代的な建物が建設されているのもあり、それぞれの遺跡で考古学的発掘が行われ、エーゲ海に起源を持つ豊かなペリシテ人の文化が明らかになりました。

ペリシテ人、、聞き慣れない民族かもしれませんが、実は皆さんにも馴染みの民族です。

サムソンによる千人のペリシテ人殺害から、ダビデとペリシテ人の巨人ゴリアテとの戦い等に数多く登場し、ペリシテ人はイスラエル人の敵でした。

https://youtu.be/fdyFGUh_Kpo?si=rw8EYhCywRwMjX6n

ペリシテ人のカナンへの攻撃について、考古学者はこの様に描写しています。

「海の民は陸と海から次から次へと攻撃を加え、シリア、パレスチナ、さらにはエジプトそのものを攻撃した。最後の最も強力な攻撃の際に、ペリシテ人を含む海の民がカナンから南に押し寄せ、エジプトのデルタ地帯に陸と海からの攻撃を加えた。」

https://youtu.be/GjfX6-KFOrw?si=Oz0IQidESMleVSkL

しかしその後、ペリシテ人は古代エジプトの「最後の偉大な王」と呼ばれたラムセス 3 世 (紀元前 1198 年頃 - 1166 年頃) に破れます。ラムセス 3 世は彼らがパレスチナ南部に定住する事を許可。そこでペリシテ人は独立した政治勢力に発展し、分裂したカナン人の都市国家と新しく定住したイスラエル人の両方にとって脅威となりました。
https://www.biblicalarchaeology.org/daily/ancient-cultures/ancient-israel/the-philistines-to-the-north/

しかしペリシテ人はイスラエル王国のダビデ王に敗北しガザを奪われ衰弱します。

イスラエル王国が誕生し、ガザは紀元前 11 世紀初頭ダビデ王によりイスラエルの支配下に置かれました

https://youtu.be/cjG2OZcAWOo?si=ZIyMoDN5dpW4w8Vv

聖書の記述によるとガザは紀元前 11 世紀初頭、ダビデ王の治世からイスラエルの支配下に置かれました。

その後、紀元前 930 年頃に統一君主制が分裂すると、ガザは北イスラエル王国の一部となりました。

ヘブライ語聖書にはサマリア王国としても知られるイスラエル王国が、ダビデ王とその息子ソロモンによって統治されたイスラエル連合王国の2つの後継国家のうちの1つとして描かれており、もう1つが南のユダ王国です。

北イスラエル、つまりイスラエル王国の首都がサマリアでした。

https://youtu.be/HOkuXeFnuMs?si=hQPH_dZTcztkQki6

十部族で構成された北イスラエルは二つの部族で構成された南ユダに比べて優勢でしたが、神殿のあるエルサレムが南ユダに属しているという弱点がありました。

https://youtu.be/SKyHim19xTQ?si=1ikAm2AX4z_FgC6Z

この時代について現在のユダヤ人は、ダビデ王によるエルサレム征服3,000周年記念式典が現実の出来事である事は当然だとしつつも、そこで描写されている物事は確実では無いとも指摘しています。

ダビデ王支配のイスラエル王国が存在した裏付けとなる証拠のいくつかは実際に存在します。しかし、それは決定的なものではありません。入手可能な情報をすべて集め言える事は、紀元前 10 世紀のある時点でエルサレムを首都としたイスラエルにダビデと呼ばれる支配者がいた可能性が高い、という事です。

https://youtu.be/DtHLItM87Jc?si=siR6A8v_nAXhyd5Q

古代エルサレムの存在を示す証拠は沢山あります。

旧市街の城壁のすぐ南にあるダビデ市、現在のシルワン村での発掘調査では、この場所が約 5,000 年間継続的に占拠されていた事が示されています。

https://youtu.be/iey4yh2vPi8?si=xJCDBjpJdCcsTFTF

ダビデが統治した時期の遺跡の状況を確認する為に、故イーガル・シロ教授が指揮し発掘調査が行われ、その際20メートルの巨大な階段状の構造物が発見されており、紀元前12~10世紀のものと推定されました。

これはエブス人の要塞の基礎であった可能性があり、ダビデによって占領され、その後拡張されました。

つい最近まで、ダビデ王の存在を示す証拠は聖書以外には貧弱でした。

当時のエジプト、シリア、アッシリアの文書にもダビデ王に関する記述はなく、ダビデの街で行われた多くの考古学的発掘調査でも、ダビデ王の名前すら出てこなかったのです。

しかし、1993年7月21日、ガリラヤ北部のテル・ダンを発掘していたアブラハム・ビラン教授率いる考古学者チームが、アラム語で刻まれた23×36cmの三角形の玄武岩片を発見しました。

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その後それはシリアの王によって建てられ、後にイスラエルの支配者によって壊された勝利の柱の一部である事が判明しました。紀元前9世紀、つまりダビデがイスラエルを支配したと考えられてから約1世紀後のこの碑文には、Beit David(ダビデの「家」または「王朝」)という言葉が刻まれていました。

これはダビデに関するほぼ同時代の最初の文献であり、これは決定的なものではないが、ダビデと呼ばれる王が該当する時代にイスラエルに王朝を築いた事を強く示しました。

現在はイスラエル博物館にて展示されています。

ダビデは息子のソロモンと共にユダヤ教にも、キリスト教にも、イスラム教にも登場する主要人物です。

新アッシリア帝国によってイスラエル王国は征服され滅亡。ユダヤ人は追放され、イスラエルの失われた十部族という伝承が生まれました

紀元前730年頃にイスラエル王国が、ティグラト・ピレセル3世とサルゴン2世率いる新アッシリア帝国に滅ぼされた際に、ガザはアッシリアの支配下に置かれました。

新アッシリア帝国は古代メソポタミア民族の子孫であるアッシリア人の帝国です。古代アッシリア人のほとんどの子孫は現在、イラク・アラブ人またはシリア・アラブ人であると認識されています。

紀元前722 年にイスラエル王国首都サマリア陥落。アッシリアの王はサマリアを占領しイスラエル人をアッシリアに追放。彼らが聖書の「イスラエルの失われた部族」です。

https://youtu.be/nv5wowWyNE0?si=gZ0_A6x7YGV8weAJ

その栄華を誇った新アッシリア帝国もバビロンの反乱により弱体化し始め、紀元前 626 年から 609 年にかけ新バビロニア帝国に征服されます。

新バビロニア帝国は主に紀元前2000年期前半に中東各地で権力を握ったアムリの帝国と言われています。この民族は古代メソポタミアの流れをくみ、旧約聖書ではアモリ人もしくはエモリ人の名で登場し、ハムの子であるカナンの子でありカナンの諸部族の一つとされています。

メソポタミアで権力を握ったほとんど全ての王達がアムル系であった事で、アムル人の中でも有名な人物にはバビロンのハンムラビが居ます。

ハンムラビは自らを「アムルの王」と称し、「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典で知られる人物です。

https://youtu.be/ALYTEtVw_G8?si=jACXVlUQ3La9gpbE

新バビロニア帝国がカナンを支配

新アッシリア帝国を滅ぼした新バビロニア皇帝ネブカドネザル2世は、紀元前604年に新アッシリア帝国の配下となっていたペリシテ人のフィリスティアに侵攻し、アシュケロンを焼き払い、その領土を新バビロニア帝国に編入しました。

新バビロニア皇帝ネブカドネザル2世はあの有名なバビロンの空中庭園を妻の為に贈った人物です。

https://youtu.be/VvK3PtDkewA?si=PYJ8UljLv6n2Oy7r

カナンのペリシテ人は紀元前 8 世紀に新アッシリア帝国によって占領され属国となっていました。

紀元前604年以降、ペリシテとその先住民であるペリシテ人は歴史から消えます。

紀元前580年代、新バビロニア帝国皇帝ネブカドネザル2世はレバント(カナンを含めた地域)で反乱を起こしている属国に対して一連の軍事行動を行い、紀元前 587 年、ネブカドネザルはユダ王国とその首都エルサレムを破壊しました。

エルサレムの破壊はバビロニア捕囚に繋がり、ユダの住民と周囲の土地の人々はバビロニアに移送されました。こうしてユダ王国滅亡。

https://youtu.be/xrmTw0WroQ8?si=zKBLhHtzJZdE4rGp

その後、ユダヤ人達は、自分達が直面した最大の敵であるネブカドネザルを「諸国民の破壊者」と呼び憎みました。

そんな新バビロニア帝国ですが、ネブカドネザル2世のワンマン帝国の様な有様で、彼の息子らは凡庸で弱体化。紀元前549年、配下だったペルシアのアケメネス朝王キュロス大王に反乱を起こされ降伏し滅亡していきます。

https://youtu.be/pKDkiM9MTwE?si=nyccjxFLdxyAEdTP

アケメネス朝によるガザ支配

ガザの支配者はペルシアのアケメネス朝に代わり、紀元前 6 ~ 4 世紀にペルシア時代においてある程度の独立を享受し、繁栄しました。

※ペルシアのアケメネス朝はペルシア本土出身のイラン部族であるパサルガダエ族の王朝です。

ガザにとってもカナン地域にとってもラッキーな事に、ペルシャのアケメネス朝王キュロス大王は名君でした。

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 搾取をあまりせず、紀元前538年にはキュロスはエルサレムのユダヤ神殿を再建し、希望する流民はすべてペルシャ領のユダヤに帰還出来ると発表しました。

キュロスの台頭とバビロンの崩壊は、ユダヤ人にとっては神の御業と見なされた程です。

https://youtu.be/Dm1opTj4pZY?si=b5cCcRD4lplOhpvI

ペルシャ時代が始まるとユダヤ人が公務員として出世する事も良しとされ、軍隊を組織してペルシャ帝国の辺境に派遣されることもあった様です。ペルシャ帝国の支配下でエルサレムは再建され、大祭司職に(宗教的な権威だけでなく)時間的な権威も与えられました。

しかし、そんな時間も長くは続きませんでした。当時おそらく最強だった古代ギリシャのマケドニア王国の王アレクサンダー大王がガザに迫っています。

アレクサンダー襲来。ガザ包囲戦

ガザ包囲戦 (紀元前 332 年)

当時おそらく最強だった古代ギリシャのマケドニア王国の王アレクサンダー大王が、エジプトを支配していたペルシアのアケメネス朝に対する遠征中に行ったガザへの包囲です。

https://youtu.be/98inDANKtEs?si=J4mDE7sqry_f6Rl5

アレクサンダー大王がのアケメネスを滅ぼす為にエジプトに向かう途中で、征服に抵抗した最後の都市ガザを5か月間包囲し、最終的に紀元前332年に占領します。

とは言え、アレクサンダーのマケドニア軍は地中海沿岸の戦略的拠点であったガザを通常の手段で占領する事は出来ませんでした。

アレクサンダーはガザ防衛の強さと部下の喪失に激怒し、ガザの半分を破壊したと言われています。

都市陥落後、民間人8,000人が虐殺されたとされています。

ほとんどが地元のアラブ人であった守備隊は決死の覚悟で戦い、女性と子供達は捕虜となりました。

https://youtu.be/fBifFf_jZik?si=nyFYs0G-91HVzICP

ガザが陥落した事でギリシャとエジプトの間に明確な移動と通信の道ができ、これによりアレクサンダーはペルシャ帝国全土に進撃を続ける事が可能になりました。

アレクサンダーは都市をポリス(都市国家)に組織し、ギリシャ文化がガザに根付き、ヘレニズムの学問と哲学の栄えた中心地としてガザは名声を得ます。

アレクサンダー後継のプトレマイオス朝による緩やかなエルサレム支配

アレクサンダーの死後、ガザはエジプトと共にプトレマイオス朝の統治下に入りました。

323年アレクサンドロス大王の死後、大王の異母弟の可能性もある将軍プトレマイオスがエジプトの統治者に任命され、エジプト人は直ぐにプトレマイオス朝を独立エジプトのファラオの後継者として受け入れます。

これに伴い、ガザもプトレマイオス朝が管理する様になりました。

https://youtu.be/VvYmFlQtA2U?si=iU6pgcw_TZpzAdl3

このヘレニズム時代は、ユダヤ人とアレクサンドリア(エジプト)の支配者との間の良好な関係が続きます。

しかし、このガザのプトレマイオス朝時代を脅かす新たな敵が迫っていました。

プトレマイオス朝が管理するガザを含むこの地域レバントを奪い取ろうと、アケメネス朝帝国の東部を支配していたセレウコス朝がプトレマイオス朝に絶えず圧力をかけてきました。彼らの短期的な目標はレバント南部(特にティルス、シドンなどの港湾都市)で、最終的な目標はエジプト自体でした。

セレウコス朝がプトレマイオス朝を攻め、ガザを奪い支配

一進一退が続いていましたが、紀元前201-200年の第五次シリア戦争でセレウコス朝の王アンティオコス 3 世 がプトレマイオス朝をガザ、ユダ、ガリラヤ、サマリア、フェニキアから追い出す事に成功。

https://youtu.be/-V0tN_1KRto?si=eivFvFt3xi-p9tmq

紀元前 200 年から紀元前 64 年までパレスチナ地域はセレウコス朝の支配下に置かれる事となります。

セレウコス朝の統治はアンティオコス 3 世のもとで紀元前 198 年にスタート。彼はプトレマイオス朝と同様に、ユダヤ人達の宗教・習慣を変える事なく守っていく事を認めました。

ユダヤ人が彼をエルサレムに温かく迎え入れた後は、ユダヤの神殿と都市の再建を奨励する事までしました。

ガザにとっては良い時代が続きます。

しかしセレウコス朝が政策を変更し、エジプトとの戦争資金を得る為にエルサレム神殿に侵入するなどユダヤ人を弾圧し始めた為に、ユダヤ人の大反乱であるマカベアの反乱(紀元前 168 ~ 164 年)が発生。これをきっかけにセレウコス朝は弱体化していきます。

https://youtu.be/TaanPpi8LK0?si=MDtEpaIXio--A0y5

反乱を成功させたマカベア家が地域全土を征服しセレウコス朝を崩壊させた後、ユダヤ人は自らを自治政府としてハスモン朝を立ち上げました。

この反乱はギリシャ文化に対するユダヤの反乱でもありました。

ガザもハスモン朝の統治下に。

ユダヤ人のハスモン朝による統治時代

ハスモン朝ではギリシャ人、その後ローマ人が支配的な役割を果たしました。

ハスモン朝の支配者達はギリシャ語のバシレウス(王)という称号を名乗り、王国は数十年に渡り地域大国となりました。

しかし、紀元前63年、ローマ帝国がハスモン朝の内戦に介入。ハスモン朝はローマの属国となり滅亡。

ハスモン朝のユダヤ王国は王位を争った兄弟間の対立により、紀元前 63 年に終焉を迎えます。

兄弟は権力闘争に介入して自分達に有利に解決するようローマ共和国に訴えました。

彼らの呼びかけに応じて、ローマの将軍グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(ポンペイウス大王)がその地域に派遣されました。

結果として、ローマによるエルサレム包囲戦では1万2千人のユダヤ人が虐殺され、神殿の祭司達は祭壇で打ち殺されます。そしてローマはユダヤを併合しました。

https://youtu.be/K6mzVS_G5oI?si=b_RnuRDuJ9KP-xJo

ガザは紀元前 96 年にハスモン朝の王でユダヤ人の大祭司アレクサンドル ヤンナエウスによって破壊され、紀元前 63 年にローマ帝国に編入された後再建される事になります。

ガザが破壊されたこの戦いはガダラの戦いとして記録されています。

 

ガザ、ローマ帝国統治時代。6世紀に渡り平和と繁栄が齎された。ユダヤ人には暗黒時代到来

https://youtu.be/VpDsLyF2dms?si=YlAx8q8dRAq0a0mf

昨年ガザで発見された2000年前のローマ時代の墓地で、考古学者が今年少なくとも125基の墓を発見しました。

ローマの統治により、6 世紀に渡ってガザに比較的平和と繁栄が齎され、中東とアフリカの間の位置する貿易の拠点となり繁栄しました。

ユダヤ人にとっては暗黒時代で、ローマ帝国に反乱を起こすものの徹底的に弾圧されています。

西暦 70 年のエルサレム包囲戦で、ローマ軍はエルサレムの神殿を破壊し略奪しました多くのユダヤ人が殺され奴隷にされます。ユダヤ人が完膚なきまで叩き潰され抵抗する力を失うと、膨大な数のユダヤ人がユダヤ人先祖代々の土地を離れ他の場所に移住しました。

https://youtu.be/y741QbT1YEo?si=PqP_o8jjOQdILDm8

ローマ時代を通じてガザは繁栄し、何人かの皇帝から寵愛を受けた都市となりました。500人の元老院がガザを統治し、ペリシテ人、ギリシア人、ローマ人、カナン人、フェニキア人、ユダヤ人、エジプト人、ペルシア人、ベドウィンなど多様な人々がこの都市に住みました。

ガザ造幣局はゴルディアヌス3世を含む神々や皇帝の胸像で飾られた硬貨を鋳造していましたし、ガザを好んでいたハドリアヌス帝はガザの競技場でレスリング、ボクシング、弁論大会を開幕させていた程です。

これもユダヤ人への嫌がらせでありましたが。

https://youtu.be/mq2U-NmBPJ8?si=0t8yAJ_WmbMWxMqd&t=356

ローマ帝国皇帝ハドリアヌス帝。聞きなれない方も多いと思いますが、テルマエロマエで市村正親が演じていたあの風呂好き皇帝です。

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ガザではキリスト教の普及も始まり、西暦 250 年頃にアラブ人フィリップによって布教が始められました。

西暦540年頃、ガザはシナイ半島 への巡礼の出発点となりました。

ガザはキリスト教世界の初期において重要な都市であり、6 世紀のカイサリアの学者プロコピウスを含む多くの有名な学者が弁論アカデミーで教鞭を執っていた様です。

https://youtu.be/VwwQWhuUrBQ?si=Xm47PSjqLBYHpfNc

紀元前のガザの歴史は大まかにこの様な状態でした。

ガザは今からは想像できない程に華やかで、争いの絶えない文化の交差点だったのです。

この話はGaza Strip2へ続きます