桜の季節が終わると藤の季節ですね。
今年の京都の桜は例年より早く、間に合いませんでしたが、その代わり藤の美しい時期の滞在となりました。
ヒラマツさんがあの老舗のフレンチのヒラマツさんだと知ったのは、翌日の朝食時、スタッフさんとお話ししていてからでした。(実はロクが予約取れなくてこちらに)
博多のヒラマツさんには20年前に何度かお邪魔していて、社長さんともお話しさせていただいてます。当時からゴージャスなお店でしたが、その後全国にラグジュアリーホテルをいくつか展開されていた様です。
お部屋入って直ぐ右に書斎。
玄関から長い廊下を行くと広いお部屋に。
広さが画像では伝わりませんね😅(↓動画はInstagramサブ垢に)
結城紬も藤の帯も帯締め帯揚げも全て京都の友人のショップで購入しております。
焼き物のお話も沢山教えて頂きました。
室町通(むろまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。
平安京の室町小路にあたり、 足利3代将軍義満が「花の御所」と讃えられた豪華な室町殿を室町通今出川付近に造った事と、室町幕府と日本史の時代区分である室町時代の名前が通の由来となる。
1378年に足利3代将軍義満が、「花の御所」と讃えられた豪奢な室町殿を室町通今出川付近に造営した為、室町幕府及び日本史の時代区分である室町時代の名前の由来に。
応仁の乱で室町幕府が衰退するまで、政治・文化の中心地として賑わった。応仁の乱の後京都は荒廃し上京と下京に分裂するが、これらを結ぶ唯一の道が室町通であった。江戸時代になると呉服店が立ち並ぶ問屋街として発展。
「呉服店が立ち並ぶ問屋街として発展」とありますが、中に入るとかなりの広さがあるヒラマツさんも、老舗の呉服屋さんを改装されたとの事でした。敷地内には大きな蔵もあり、最初どなたの個人所有だった建物だろうと疑問に思っておりましたら、その華やかな歴史を教えて頂き納得した次第です。
自宅が日本庭園とか昔憧れたなぁ~
ここもとっても雰囲気ありますよ。
つづれ織の山鉾。(最初チベットなんかの曼陀羅かなんかと思いました)
綴織つづれおりとは
日本美術織物の最高峰と呼ばれている綴織で、正式名称を「西陣爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)」といい、機械は使わず人の手足のみで操作する「綴機(つづればた)」を使用し、「爪掻(つめがき)」という伝統的な技法で文様を織り上げます。
西陣織の中で最も歴史があり、爪で織る芸術品とも呼ばれています。
祇園祭では、山鉾が京都の町を練り歩く山鉾巡行が有名で「動く美術館」とも呼ばれます。
これはその山鉾のうちの「見送り」というパーツです。
山鉾とは悪霊を鎮める為の祭器。
山鉾の起源
山鉾とは平安時代中期の999年(長保元年)に雑芸者・無骨(むこつ)が天皇の即位の礼の直後に行う新嘗祭(にいいなめさい)である大嘗祭(だいじょうさい)の標山(しめやま)に似た作山を造ったが起源とも言われています。
標山は庭上に設けられ、神が降臨するとされた2基の作り山で、作り山には縁起のよい祥瑞(しようずい)を表す様々な意匠が施されていました。
また山鉾とは粟田神社(あわたじんじゃ)粟田祭の剣鉾(けんほこ)が原型とも言われています。剣鉾は神輿渡御の先導を勤め、神様が渡る道筋を祓い清め、悪霊を鎮める祭具。長刀鉾(なぎなたほこ)が祇園祭の山鉾の中で最古の山鉾と言われています。
この室町通りの山鉾はその中でも最古のものと言われている様です。
祇園際の起源
平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行。
これが牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとされ、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓う為に行われた祭。
薬師如来の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。
970年(天禄元年)から例年6月14日に行われるようになりました。
祇園祭とは大流行した疫病を祓う為に行われた祭りで、山鉾は
疫病などの災厄をもたらす疫神を鎮める依り代です。
その為かつて祇園祭の山鉾巡行で神座に封じ込められた疫神が町や通りに戻らないように他の場所に捨てたり、焼き捨てたりしました。また鴨川に流されたこともありました。現在、山鉾巡行で集められた疫神は町や通りに戻らないように巡行後に山鉾は素早く解体され、蔵などに収納されます。
解体後、見送などのように国の重要文化財に指定されているものもあるようです。
因みに つづれ織とは織り方の技法のひとつであり、西陣織独特の織り方ではありません。
つづれ織の起源はエジプトだと言われています。
紀元前15世紀の王墓からつづれ織の衣類等が見つかっているそうです。
その後、各地に広がっていき、東洋にはシルクロードから伝わったのです。東洋に伝わる頃には用いる糸も、西方の毛糸から東洋の絹糸へと変わり、技術も発展して東洋独自のつづれ織が完成していきました。
日本への伝来は飛鳥時代だと言われています。遣隋使や遣唐使が持ち帰ったものと考えられています。
しかしながら、その後つづれ織は見られなくなりました。
現在に繋がるつづれ織の発祥は江戸時代の西陣。この頃の西陣は製作技術も中国をも凌ぐ勢いで、多くの人から重宝される製品を多く作っていたそうです。
横糸だけで文様を表現するのがつづれ織です。
つづれ織というのは織物において、「 横糸をだぶつかせ、縦糸が見えないように打ち込みを多くした織り方 」で平織りの一種で、日本の西陣の爪掻本綴織(つめかきほんつづれおり)は織機の大きさ、種類、形、糸の太さ、種類(正絹)、打ち込み数、道具まで規制された逸品だそうです。
爪掻本つづれ織とは、手の爪をギザギザにカットして横糸を爪で織りこんでいく技法で、西陣織の中でも高度な技術が必要とされ、縦糸の上に横糸で絵を書くように仕上げるので、平面的でなく立体的な作品も作る事が可能。反面、大変手間のかかる作業ですから、一日かけて数センチしか織れないという事も。
教養あるスタッフさんにずっと敷地内の調度品や歴史をご説明していただき、写真まで沢山撮って頂き・・・笑
友人といても勿論楽しいし、一人ご飯でも私は昔から楽しめる人です。(そもそも一人旅ばかりして来てますので)
器も見ていて楽しい。
とても大きなハマグリでした。
地鶏と白トリュフ
からの
祇園~
この塩たこ焼きが滅茶苦茶美味しくてご飯食べた後なのにお代わりまでしてた。。。たこ焼きまで美味しい京都。
シガーbarに移動。
この辺りの記憶はあまりない。
この時のシガーはモンテクリスト頼んでます。撮り忘れ
地元の友人達には日常でも、やっぱ花見小路は風情あってええよね。
この後二人は朝5時まで飲んではった様子・・・バカじゃw
ちゃんちゃん
京都の朝は大体というか必ず二日酔いなんですが、たこ焼きガツガツ食べながら飲んだせいか、奇跡の素面!!!
二日酔いじゃない京都の朝はなんて素晴らしいんだ!!
おすぃまいっ